日本国憲法に大きな影響を与へた憲法研究会案 ~真っ赤な憲法研究会~

 昭和20年10月4日、マッカーサーは、GHQ本部で近衛文麿に《憲法ハ改正ヲ要スル。改正シテ自由主義的要素ヲ十分取入レナケレバナラナイ》と決然たる調子で、日本の新しい憲法を創作する事を指示した。エマーソンやノーマンをはじめOSS以来の側近は、絶好の機会と読んだに違ひない。それは、二段階革命に他ならない。プロレタリア革命への第一革命であるブルジョア革命の事である。

二段階革命論については以前記した。

 このやうな被占領下で、大日本帝國憲法改正案が5案出されたが、このうち野村私案は、天皇制社会主義の改正構想であった。小山常実氏は、野村案と他の4案とで区分してゐる。この四案のうち、重要な草案が松本乙案である。何故なら、昭和21年2月1日の「毎日新聞」によって、松本乙案とほぼ同様の案が政府案としてスクープされた事をきっかけにして、GHQが草案作りに乗り出すからである。戦後の社会科教科書では、帝國憲法を微修正した案しか作れなかったから、GHQが改正案を作成して提示したのも無理がない、と説明してきた。しかし小山常実氏は、『松本乙案は、ざっと数へただけでも、帝國憲法全76條のうち、46條を修正ないし削除してゐる。現状維持で残されたのは30條だけである。』と述べてゐる。松本乙案は、自由党(立憲政友会の系統)と進歩党(立憲民政党の系統)といふ多数党の草案を含み、さらに、当局の案も含めて、日本側草案の平均的なところを探れば、松本乙案こそ、日本側民間草案を代表するものだと云ふべきである。松本乙案の内容は、このブログにおいて先に譲るとする。

 さて、これら4案のうち、「日本国憲法(占領憲法)」の成立過程史の上で重要なものは、先に紹介した松本乙案と、斯様な政党の憲法案だけではなく、GHQが強い関心を示したのが、20年12月下旬にGHQに届けられた憲法研究会の「憲法草案要項」である。憲法研究会の草案は、GHQ案に、即ち日本国憲法の理念及び内容に大きな影響を与へたのである。
 憲法研究会とは、東大教授で後に社会党顧問となった高野岩三郎、京大在学中に治安維持法で検挙され在野の学者であった鈴木安蔵、東大助教授を解任され戦後社会党結成に参加した森戸辰男、そして在野の評論家の室伏高信らによって構成されてゐる。これはOSSとの関係が、ハーバート・ノーマンと鈴木を通じてあったからである。
 ここで注意せねばならないのが、この憲法研究会の1草案が占領憲法に影響を与へたとしても、あくまで少数派に過ぎない案であるといふ事である。その理由になるに、翌年の1月~2月には、日本社会党案が作られてゐるが、起草メンバーには、高野岩三郎、森戸辰男、原彪、鈴木義男の4人が入ってゐる。その為、社会党案は、憲法研究会案の内容を穏和化する形で、大幅に取り入れてゐる。ところが戦後一貫して我が國の教育の場では、この少数派の共産主義者達が創作した憲法研究会の1草案を、恰も当時の多数派の民間代表案であったかのやうに教へ続けてゐる。

 GHQが、OSSの旧勢力を引き継ぎ、またOSSが占領期のGHQにまでつながり、占領憲法全体にまで影響した事は、以前説明した。

GHQとは何だったのか?
日本国憲法を策定したOSS ~ 象徴天皇制といふ対日戦略 ~

 鈴木安蔵は、福本イズムの影響を強く受け、暴力革命路線をとる共産党主流と異なってゐた。福本イズムとは、日本共産党の指導者の1人福本和夫の「二段階革命」論の事である。このブログでは、以下の記事内にて触れてゐる。

二段階革命論 ~労農者の意識~
[三・一五事件] 左翼旋風時代の出現

 福本は、昭和3年に検挙されるが、鈴木もこれに関連して同年6月に逮捕されてゐる。釈放後、再び上京し「プロレタリア科学研究所」の創立者の1人となってゐる。
 その考へ方は、まづ平和的にかつ民主主義的方法によってブルジョア民主革命を目指す事を当面の基本目標とするものである。日本における社会の発展に適応せる民主主義的人民共和政府を樹立し、その後平和的教育的手段によって社会主義革命に至る、「二段階革命」路線を取るといふ意味では、それはOSSや野坂参三の見解を受け継ぐものであった。
 ここで一旦ノーマンについて記述したいのであるが、これは次回、纏める事とする。

※参考文献
  • 「田中英道著 戦後日本を狂はせたOSS「日本計画」―二段階革命理論と憲法」
  • 「小山常実著 日本国憲法無効論」
  • 田中英道著 戦後日本を狂はせたOSS「日本計画」―二段階革命理論と憲法
  • 小山常実著 日本国憲法無効論

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