在野神道人の側からも批判があった『國體の本義』 ~「国教的影響力」をもつと考へたのは、キリスト者の過重評価~ 皇紀2684年

 戦時(大東亜戦争)思想の官憲的統制として神道指令本文でも特に明記されて、後世にまで最も有名なのに、文部省が編纂した『國體の本義』がある。これは政府が、混乱する国民思想、神国思想の調整を考へて編集したものらしいが、その頃の官立大学系学者などの国家精神史、国民道徳論の各流(神道、仏教、特に儒学系)の諸説の間の論争点を避けて一致調整を試みたやうなものである。官憲の財力で、大量の出版をしたではあらうが、格別に神道諸学の間の不一致の問題点などには触れない事に気を配って書かれた一般通俗書だっただけに、人心に格別に深い感動を与へ得るものではなかった。
 最もこの書が、神儒仏の三道を書いてその綜合を求めてゐるので、キリスト者の中には、これを新しい「国教制定」への試みと推測した者もあったらしく、その影響もあったものか、占領後の神道指令では、特にこの書名を挙げて禁書としてゐる。田川大吉郎著『国家と宗教』によれば、林銑十郎首相が、予てから「大道社」の熱心家だったので強い疑念をもって反キリスト「国教制度」の計画だったと推測してゐる。大道社といふのは、明治中期の所謂在家仏教の思想運動として、最も有名で、反キリスト教に熱烈で「神儒仏の綜合」をもって国教を固める主張をした大きな勢力であった。その会長は、初めは山岡鉄舟、二代目が鳥尾得庵、会員は三万五千だったが機関誌『大道叢誌』の執筆は論法鋭く、一般知識人にも愛読者が多く、一時期にはキリスト教、欧化風潮に対して、日本主義の「政教社」と並んで、最も強大な脅威を感じさせた思想言論活動を展開した。昭和時代には、あまり勢力は残存してゐなかったが、林銑十郎は個人的に熱心な大道社三代の会長川合清丸主義の信奉者だった。明治以来のキリスト教防衛史について強い関心のあった田川大吉郎が、大道社の熱心家、林銑十郎が首相となり、文部大臣を兼任した時に、神経質になったのは無理でない。彼は、「國體の本義」は、林首相によって推進されたと「推測」してゐる。

 この『國體の本義』では、神道、儒教のみでなく、仏教的國體思想が、存外に大きく扱はれてキリスト教は無視されてゐる。キリスト者の、林首相に対する反感と不信が痛切であったとするならば、それがやがて「国教設定」への準備と「推測」して、世界の同信者に警戒のアピールをしたとしても強ちに無理ではない。
 しかし林内閣といふのは、組閣当初から帝国議会に支持の根が無くて、短命と一般に予測されてゐたし、事実僅か四ヶ月の短命に終ってゐる。しかも、その後継の近衛内閣は、議会に対して公式明白に「国教制定の意図が決してない」と公文書で示してゐる。林銑十郎首相の私的心情がどうであったかは証明できないが、『國體の本義』は在野神道人の側からも批判があり、これが「国教的影響力」をもつと考へたのは、キリスト者の過重評価だ。仮にも政府に、神道的国教を制定する意図があれば、神宮神社を所管する内務省が動くのが道であるが、事実は、内務省は、依然として宗教者神道家を敬遠し続けてゐた。

※参考文献
  • 「葦津珍彦著 阪本是丸註 国家神道とは何だったのか」
  • 葦津珍彦著 阪本是丸註 国家神道とは何だったのか

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