三角縁神獣鏡は支那からは出土しない。即ちこの鏡は支那製の鏡ではなく、日本製である。従って卑弥呼が魏朝から贈られた魏鏡ではあり得ない。
これは、王仲殊氏による「日本の三角縁神獣鏡の問題について」といふ論文の核心である。
勿論従来から、この型式の鏡が支那や朝鮮半島から出土しない事は、"知られて"ゐた。
三角縁神獣鏡問題に対する古田武彦氏の基本視点を、以下に述べる。
古田氏の視点には、横軸と縦軸の二方向がある。
先ず、横軸。これは空間軸だ。三角縁神獣鏡の出土分布図を東アジア全域について描いてみよう。三百~五百面、日本列島だけに近畿を中心に濃密だ。ところが、支那や朝鮮半島には一切ない。その「ない」地域を生産中心と見なし、濃密出土領域(日本列島)へ送られた「下賜物」と見なす、これはいかにも異常だ。せめてその鏡の実物はなくても、「鋳型」群でも集中出土するならともかく、無論それもない(通例、鏡は砂型で作る為、鋳型は見出されにくい)。実物もない、「鋳型」もない、そのない/\尽くしの、その領域を生産原点と見なす、こゝに「三角縁神獣鏡、支那製」説の致命的な欠陥があった。
第二の縦軸問題。これは時間軸の方だ。三角縁神獣鏡は弥生遺跡から全く出土しない。全て古墳期の遺跡だ。つまり古墳からの出土なのである。それなのに、これを以って"本来は、弥生時代(三世紀前半)に魏朝から卑弥呼に与へられたものだ。しかし彼女から鏡を分与された配下の豪族達は、自己の墳墓や同時代の生活遺跡にはこの鏡の残片すら、一切遺存させなかった。そして、次代もしくは次々代の子孫達へと伝へた。そして、古墳期の子孫達が、或いは四世紀、或いは五世紀、或いは六世紀になって、その墳墓、つまり古墳にこの鏡を埋蔵した"。そのやうに考へるのである。これが有名な「伝世鏡の理論」だ(梅原松治氏を受け継いで、小林行雄氏の完成されたところ、とされる)。
古田氏は、
しかしこの理論は、たとひそれが「専門」の考古学者の頭を納得させ得たとしても、人間の平明な理性に依拠する、私のやうな一介の素人を納得させる力はなかった。
と。
何故なら"弥生遺跡(A´)には皆無。古墳に全て(B´)"が基本の事実なのに、「A´→B´」の形の「時間移動」を仮定する、これは思考の平明なルールを越えるものだからである。これはちゃうど、先の横軸問題で、「定説」派が"支那・朝鮮半島(A)には皆無。日本列島に全て(B)"が事実であるのに、「A→B」の「空間移動」を仮定し、皆無領域を"原存在点"と見なしてゐたのと全く同一の論法だ。
いはば"逆立ちした論法"である。
古田氏は、
私には、このやうな論法に従ふ事ができない。やはり全てが古墳から出土する出土物は、これを古墳期の産物と考へる他はない。
これが縦軸の論理だ。
以上の横と縦の「両軸の論理」からすれば、"三角縁神獣鏡は、古墳期における、日本列島内の産物である" — 私にはこのやうに理解する他なかったのである。
と。
簡易に言へば、
- ・三角縁神獣鏡は、日本列島だけに近畿を中心に濃密だ。ところが、支那や朝鮮半島には一切ない(横軸)。
- ・三角縁神獣鏡は弥生遺跡から全く出土しない。全て古墳期の遺跡だ。つまり古墳からの出土である(縦軸)。
視点を前進させると、卑弥呼が魏朝から贈られた銅鏡百枚とは何か。
その解答の為の問ひが、"日本列島弥生期の遺跡から出土する銅鏡の分布中心はどこか"となる。
弥生期銅鏡分布について、次回以降に纏める。
- ※参考文献
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- 「古田武彦著 よみがえる九州王朝 ~幻の筑紫舞~」
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