俺がまだ大学生の頃、コンビニの夜勤バイトをやってゐた時、年齢一つ下のバイト仲間の男が、こんな事を言ってゐた。
テクノって、ギャル男のイメージがある。
??何言ってんの?って思ったが、俺の言ふテクノとは、デトロイトの黒人達が創始者であるDJ音楽、デトロイト・テクノの事であり、ブラック・ミュージックである。ブラック・ミュージックがギャル男??
恐らく、テクノと聞くと、ジュリアナ東京のやうな安っぽい風なのをイメージしてしまふとんでもな勘違ひをしてる日本人は、今でも割とゐるのかもしれない。
デトロイト・テクノ創始者の一人、デリック・メイは言ふ。
デトロイトは全く何も無いゴースト・タウンさ。影響も無かった。俺達にとって影響と言ったら、本当に、クラフトワークやYMOしか無かった。それは音楽を作るといふより、生きる糧みたいなものだったらうね。
でも、俺達は世界の事を本当に知らなかった。世界中がこんな音楽(クラフトワークやYMO)に夢中なんだと信じてゐた。それがデトロイトの特別なところさ。
デトロイトの音楽は言はばアクシデントである。それは、クラフトワークとジョージ・クリントンを同じエレヴェーターに詰めたやうなものなんだ。
以前に、自身のSNSにて転載した内容だが、DJ音楽としてのテクノとは、デトロイトが発祥の地であり、初期のテクノは、デトロイト・テクノと呼ばれてゐる。その創始者の一人が上記のデリック・メイであり、デトロイトの黒人達がデトロイト・テクノの創始者なのである。
Rhythm Is Rhythm a.k.a Derrick May – Strings Of Life
ホアン・アトキンスは言ふ。
俺は70(耶蘇教暦1970)年代、ファンカデリックの『America Eats Its Young』や『Maggot Brain』のやうな音楽にいかれてゐたんだ。でもモジョ(エレクトリファイン・モジョ)のラジオで俺は初めてクラフトワークと出会った。
Kraftwerk – Trans-Europe Express
YMO – Behind The Mask
ご存じ、クラフトワークはドイツ、YMOは我が日本の音楽グループだ。
デトロイトの黒人達は、白人(ドイツ)や東洋人(日本)の電子音楽に慣れ親しんだ環境で育った。
一方ドイツは、1991年、ベルリンを代表するテクノレーベル、Tresorを設立し、デトロイト・テクノのアーティストの曲、アルバムを多くリリースした。
日本人アーティストの田中フミヤさんもこのレーベルからリリースした事がある。
ドイツはその後、このやうにDJ音楽としてのデトロイト・テクノを継承しつゝも、やがてその大元のクラフトワークを祖として、”ジャーマン・テクノ”といふ一大ジャンルを築き上げた。
他方、日本は、個々では、ケン・イシイさん、石野卓球さん、Co-Fusionさん等、日本テクノとしてのパイオニアはいらっしゃる。また1994年、DJ YAMAさんにより日本のテクノレーベル、Sublime Recordsが設立した。
しかし肝心の日本の音楽業界は、ドイツのやうな、クラブダンスミュージックとしての”日本テクノ”を築かうとすらしなかった。
YMOをクラブ音楽のデトロイト・テクノの先駆者、ではなく、単なる一時世界で通用したいちアーティストに、日本人自ら下げてしまったのだ。
一体、ドイツと日本の音楽業界の違ひは、何なのだらう?
フランソワ・ケヴォーキアンは言ふ。
もしクラフトワークスタイルと呼べる音楽があるなら、僕が思ふにそれはデトロイトの事だ。ハウスの中にクラフトワークの影響はそれほどないからね。だけどデトロイトの少年達はクラフトワークをとてもよく理解してゐた。ケヴィン・サンダーソン、ホアン・アトキンス、デリック・メイ。彼らが若い頃にやった事、そのコンセプトがいかに進んでゐたかは批評的にまるで評価されなかった。仮にもし今日ひとが”Nude Photo”を聴いても、いまだに理解されないはずだよ。だけど、彼らこそクラフトワークの理解者だと僕は思ってゐる。
Derrick May – Nude Photo.
クラフトワークをあくまで思想として音楽に組み込んだのは、ホアン・アトキンスたゞひとりであった。
俺達は、古くさいR&Bのシステムにはうんざりしてゐたんだ。
とホアン・アトキンスは語ってゐるが、彼のクラフトワークへの偏愛はあたかも伝統的なブラック・ミュージックを拒絶するかのやうですらある。いや、事実さうなのだ。
アトキンスが、ビルヴィレに越してからしばらくすると、弟アランは新しく転校してきた黒人のキッズを彼の家に連れてきた。そのキッズは、ひとなつこく陽気でしかも気性が激しく、じっとしてゐる事ができないタイプで、どちらかと言へば大人しいアトキンスとは正反対の性格だった。
初めて会った時、ダサイ奴だと思ったけどね。ラジオポップスしか知らなくてさ、俺は既にPファンクやクラフトワークやYMOも知ってゐたのに。しかも奴ときたら白人みたいな発音しやがって、嫌な野郎だと思ったよ(笑)
と、アトキンスは語ってゐる。
しかし、デリック・メイと言ふ名前のその年下の少年とアトキンスが親友になるのに時間はかゝらなかった。
ところで、(デトロイト)テクノといふDJ音楽としてのジャンル名は、かう生まれた。
1988年5月、コンピレーション・アルバムのプロモーションに合はせてイギリスの雑誌『ザ・フェイス』は、6ページにも及ぶデトロイトの特集記事を組んだ。ホアン・アトキンスはその記事の中で高らかに宣言してゐる。
こゝ5年ぐらいの間、デトロイトのアンダーグラウンドではテクノロジーを使っての実験が繰り広げられてゐた。それはテクノロジーの使用を拡張しようとするものだった。シーケンサーもシンセサイザーも安くなってゐたし、何よりも俺達は”恋に落ちた”とか”ふられた”とかの、古めかしいR&Bのシステムにはうんざりしてゐた。そこで俺達はプログレッブな音楽を創出した。そして俺達はそれをかう呼んだ。テクノ!
Audiotech a.k.a Juan Atkins – Phase two
デリック・メイは言ふ。
アメリカでは1980年代半ば、ヒップホップは既にポップスのひとつだった。ランDMCはブラック・ミュージックと言ふよりもポップ・バンドだと思ってゐた。でも俺達の興味はアンダーグラウンドだった。アンダーグラウンドのダンス・シーンには、ポップスにはない何か自由で特別なものがあるんだ。俺はオリジナルのヒップホップには敬意を払ふ。でも今のヒップホップのほとんどがゴミだと思ってゐる。何故か?当たり前だらう。あれはイメージを売ってゐるだけだからな。マーケティングであり、ハイプだ。
まあさうは言っても、そこにはとても難しいものがあるよ。俺はアイス・キューブみたいにタフでなければ生き残る事ができない状況で育ったわけではないからね。もし俺も彼らのやうに厳しい現実の中で育ったら、タフなライフスタイルを選ばざるを得なかったのかもしれない。でも、だからと言って貧しい黒人全てがヒップホップしかないと言ふのは違ふと思ふ。俺がアンダーグラウンドに未来を感じたのは、ヒップホップのやうな厳しい生存競争ではない、何か別の可能性をそこに見たからなんだ。
- ※参考文献
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- 「野田努著 ブラック・マシン・ミュージック ~ディスコ、ハウス、デトロイト・テクノ~」

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