デリック・メイは回想する。
母親はシカゴに引っ越してしまったし、俺は一人デトロイトに残って、ホアン(Juan Atkins)の手伝いをしてゐた。スタジオでホアンがやってゐる事を間近で見ながら、音楽の作り方を学んでゐたぐらいだった。俺が19歳の時、サイボトロンの最初のシングル『Alleys of Your Mind』が完成した。俺はプロモーションを手伝って、そのシングルを一万枚も売ったよ。
Cybotron – Alleys Of Your Mind
そんな彼(デリック・メイ)の運命を変へたのは、耶蘇教暦1983年のシカゴだった。母親がシカゴに越した事もあり、度々その地を訪れてゐたメイだったが、彼が街のレコード店<インポーツ>に入った時にその店の扉はシカゴのアンダーグラウンドにまで通じてゐた。その通路は、ホアン・アトキンスのデトロイト・テクノとは別の道だった。
20歳の時だったかな。シカゴのあるレコード店に入った。<インポーツ>といふ名前の店だ。俺はそこでチップ・Eやファーリー、それからクレイグ・ロフティスと知り合った。クレイグ・ロフテイスはあまり評価されてゐないけど、初期のシカゴではとても重要なアーティストだ。彼が最初にTR909やドラム・マシンをダンスミュージックに応用したんだ。
初めて〈ザ・パワー・プラント〉に行った時の事は今でもよく憶えてゐる。フランキー・ナックルズこそ、俺の人生のターニングポイントだった。
俺達はそれ以前にもパーティでDJをしてゐたし、DJチームも組んでゐた。俺達には既に二台のターンテーブルがあったし、ミキサーもあった。俺達はミックスもできたし、その為のレコードも持ってゐた。でも、俺達は実は何も持ってゐなかったんだ!フランキー・ナックルズの〈ザ・パワー・プラント〉に行って、俺はその事に気がついたんだ。レコードをミックスしてプログラムしていく、そんな事は誰にだってできるんだ!しかしフランキー・ナックルズやロン・ハーディがやってゐた事はそんなものではなかった。それ以上のものだった。俺の人生はこの時に完璧に変はった。
そこにゐる100%が黒人だった。パーティは基本的にゲイのものだったけど、女の子もそこにはゐたし、俺のやうなストレートな男も多かった。正直言って、俺はその時程スピリチュアルな体験をした事はない。全てが素晴らしかった。
初めてフランキーを聴いた翌日、すぐにホアンに電話したよ。『ホアン、俺はつひに音楽の未来を見たよ!』もう興奮して色々と喋った。そしたらホアンはぼそっと『ああ、おかまディスコの事ね』だって、もう全然信じてもらへなかった。『ノー!違ふよ、ホアン、そんなんぢゃないんだ!』俺は何回もホアンに説明した。『だから、たかゞディスコだろ?』ってホアンには中々伝はらなかったけどね。だけど俺には確信があったんだ。これは音楽の未来だといふ確信がね。俺はしばらく、毎週末をシカゴで過ごす事にした。
初めてフランキーのDJを聴いてから、一ヶ月間俺はシカゴに居続けた。
D.ウィンやケヴィン(ケヴィン・サンダーソン Kevin Saunderson)も〈ミュージック・ボックス〉に連れて行ったけどね。
ケヴィンはどちらかと言へば、〈パラダイス・ガレージ〉だったけどね。ケヴィンは元々ニューヨークにゐたから、デトロイトに来てからも〈パラダイス・ガレージ〉にばっか通ってゐた。だから俺はケヴィンに言ってやったんだ。『何か言ふなら、ロン・ハーディを聴いてからにしな』とね。勿論ケヴィンもぶっ飛ばされたさ。ロン・ハーディのパーティに!
しばらくはシカゴに夢中だったね。それから俺達はデトロイトに戻って、自分達の手でシカゴのやうなパーティをやりたいと考へるやうになった。俺達は〈ザ・パワー・プラント〉と〈ミュージック・ボックス〉にあった生気を、あの熱気を、あの素晴らしい人達の感情を自分達の街にも欲しいと考へ始めたんだ。ストレートもゲイも男女も、誰もが本気で楽しんでゐるあの体験をデトロイトでも創造したいと思った。希望の無い、死んだやうなデトロイトの街に、シカゴのやうなファンタスティックなヴァイブが欲しいと思った。
黒人のキッズがあんなに生気があふれてゐる現場を見た事がなかったんだ。俺達には歴史が無かった。シカゴにあったものがデトロイトには無かった。だから俺達は俺達自身のものを創造するしか無かった。確かにサイボトロンはあったさ。でも、それだけだった。ホアン・アトキンス一人だけだった。それにね、ホアンのレコードはデトロイトよりもシカゴの方で売れた。
俺はね、この際だからはっきり言ふけど、俺自身はシカゴ・ハウスの一部だと思ってゐた。ホアン・アトキンスこそがデトロイトだった。ホアン・アトキンスがデトロイトのエレクトロを作り、テクノを作った。俺はシカゴに出向いた。そしてシカゴ・ハウスの洗礼を受けた。それを未来だと思った。しかし、ホアンはテクノを作りたかった。テクノがホアンの未来だった。俺はダンス・ミュージックを作りたかった。シカゴ・ハウスを自分なりに解釈した、ハウスのレコードを作りたいと思った。今でもDJプレイの時シカゴ・ハウスを主体にかけるのは、つまりはさういふ事さ
デリック・メイが自らをシカゴ・ハウスの一部だとするのは、彼の偽らざる気持ちである。彼は当時、自分のTR909をフランキー・ナックルズにプレゼントしてゐる程なのだ。シカゴ・ハウスの洗礼を受けたのは、デリック・メイ一人では無かった。ケン・コリーヤーはフランキー・ナックルズと交流があったし、またメイ以外でも高校を卒業した第一世代の多くがシカゴとの交流を持ってゐた。1985年にマイク・クラークの紹介によって、ファーリー・キースの「ホット・ミックス5」はデトロイトでも影響力を持つに至った。
Farley Jackmaster Funk(ファーリー・キース)
- ※参考文献
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- 「野田努著 ブラック・マシン・ミュージック ~ディスコ、ハウス、デトロイト・テクノ~」

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