卑弥呼の都城 ~筑前中域~ 皇紀2684年

 卑弥呼が魏朝から贈られた銅鏡百枚とは何か。その解答の為の問ひが、”日本列島弥生期の遺跡から出土する銅鏡の分布中心はどこか”と。その答へは、意外にも簡明である。

弥生遺跡出土 全漢式鏡

(図壱: 古田武彦著 よみがえる九州王朝 66頁)

 全体が約百七十面、その九割が福岡県、そのさらに約九割が筑前中域(糸島・博多湾岸・朝倉)。つまり約八割が筑前中域だ。
古田武彦氏は、
『このやうに極端な分布の偏在を眼前にする時、私達はその中心領域の所在について迷はうとしても、凡そ迷ふ事は不可能だ。』
と。
然り、卑弥呼の都城の存在した領域、それはこの筑前中域を除いて他に求め得ないのである。

 もう一つ、重要な問題点がある。それは、志賀島金印の問題である。”博多湾、奴国説”の最大の根拠、それはこの金印に対する、考古学者三宅米吉の読解であるやうに思はれる。即ち教科書でも一般化されてゐる「漢の委(わ)の奴(な)の国王」といふ読解だ。
 この読みは、あたかも”確乎たる定説”であるかのやうに、人々は思ってゐる。現地の記念碑の前の解説にも堂々とその読みが書かれてゐるから、一層人々の思考力を奪ってゐるのであらう。

 ところが、支那の印制では「AのB」といった風に、二段に刻されるのが通例である。例へば、

  • 漢(A)帰義胡(B)長

のやうに。これは印の授与者(A)と被授与者(B)との直接関係のみを認め、中間の介在者を認めない、さういふ「支那朝廷側の論理」の表現である。然るに米吉氏の読解は、自家の近畿中心説の為に、敢へて右のルールを破り、三段読みに奔ったものである。
 即ち、

志賀島の金印は、「漢の倭の奴(な)国王」ではなく「漢の委奴(いど)国王」

と読まなければならない。光武帝は、自分を苦しめた北方の「匈奴」と比べ従順な、東方の「委奴」に金印を授与したのである。(委は「従順な」の意味)

 従来、博多湾にのぞむ平野を奴国に指定しようとしたが、以前の投稿記事( 本居宣長による「投馬国」比定を批判する ~邪馬壹国~ 皇紀2683年 )にもあるやうに、「伊都国 ー 奴国」間の「直線距離」は、さらに百里(7.5キロメートル)以下となる。従って、奴国は糸島郡(現、糸島市)内を出ない位置となる可能性が高いのである。

 それゆゑ「志賀島 ー 博多駅 ー 太宰府」といふ邪馬壹国の中枢地帯(それは出土物の質・量ともに日本列島随一の、弥生のゴールデン・ベルトである)から新たな出土物(例へば「細剣の鋳型」から「貨幣」まで)がある度に、「またも奴国から画期的な出土」と書き続けてきた悪弊。その気風が一層された時、初めて卑弥呼の都城領域は、スッキリと万人の眼前に”あらは”となってくるであらう。

※参考文献
  • 「古田武彦著 よみがえる九州王朝 ~幻の筑紫舞~」
  • 「古田武彦著 「邪馬台国」はなかった ~解読された倭人伝の謎~」
  • 古田武彦著 よみがえる九州王朝 ~幻の筑紫舞~
  • 古田武彦著 「邪馬台国」はなかった ~解読された倭人伝の謎~

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