耶蘇教暦1988年の夏、市内のダウンタウンには一軒のクラブがオープンした。そのクラブはデトロイト・テクノの象徴ともなったが、その名前はまるでナイトクラブらしからぬ〈デトロイト・ミュージック・インスティテュート〉(デトロイト音楽研究所)と名付けられた。真っ暗なダンスフロアの中に点滅するストロボだけの照明のあり方は、今でもデトロイト・アンダーグラウンドの常識であり、人によってはそれを”デトロイト・スタイル”とも呼んでゐるが、この起源は〈ミュージック・インスティテュート〉にある。勿論このスタイルは、やがて世界中のアンダーグラウンドなテクノ・パーティの基準ともなる。
パーティにやってきたのはデトロイトに住む若い黒人だけではなかった。カナダのウィンザーからそこに駆けつけたのが、リッチー・ホウティンであり、ダニエル・ベルだった。
リッチーはたいしたやつだよ。何故って、ある意味最も恐れるべきデトロイトの黒人の群の中に彼は入っていったんだから
とデリック・メイは嘗て言ってゐるが、確かに彼らはそこにゐた数少ない白人だった。
ホウティンは言ふ。
ウィンザーとデトロイトは、ロンドンで言へばテームズ川を隔てて南ロンドンと北ロンドンが別れてるみたいなもんなんだ。俺が住んでる所は、デトロイトの殆どの人が住んでゐるエリアよりデトロイトのダウンタウンに近いんだよ。家から5分くらいでデトロイトに行ける。俺は9歳の時にイギリスからウィンザーに引っ越したんだけど、もうその頃からデトロイトにはショッピングに出掛けてたね。13~14歳にもなると、毎週末デトロイトのクラブへ行くやうになってゐた。俺はウィンザーに住んでるけど、デトロイトのクラブ・シーンでハウスやテクノと一緒に成長したんだ
リッチー・ホウティンが〈ミュージック・インスティテュート〉で見たことは、そのコミュニティの温かさではなく、群れることをしないデリック・メイらの態度だった。
ホウティンは言ふ。
ケニー・ラーキンやダン・ベル(DBX – aka Daniel Bell)とは音楽を始めた頃から一緒にゐたけど、それは何でかって言ふと、デリック・メイみたいな人達とは一緒にゐられなかったからなんだ。彼らは人とつるんだりはせずに、ひたすらスタジオ・レコーディングに時間を費やしてゐた
同じくイギリスのDJカール・コックスについて、デリック・メイは次のやうに話す。
例へばイギリスのDJにカール・コックスがゐる。彼はまさにイギリスの白人社会で成功した黒人DJだ。でも多くの黒人はカール・コックスを批判する。『やつは媚びてゐる。白いケツの穴にキスしやがって』とみんなは言ふ。俺はさうは思はない。何故、カールをカールとして見てあげないのだらう。何故、カールを一人の人間として評価しないのだらう。彼は彼自身の実力があって、人気DJになった。たゞそれだけのことなのに。勿論音楽の考へ方は俺とカールとでは違ふ。でも音楽の問題を人種的問題にすり替へることは、時には暴力的なことでもあるんだ。
勿論白人社会に媚びることがいいことだとは全然思はないよ。アメリカに住んでゐると特にさういふことに敏感になってしまふ。アメリカに住んでゐるのは白人と黒人だけではない。アジア系だってずいぶんと住んでゐる。例へばデトロイトの郊外には日本人のコミュニティがある。彼らはまるで白人のやうに振る舞ひ、自分達を白人だと思ってゐる。誰の目から見ても白人ではないのに、自分達は白人と同等だと思い込んでゐる。それは全く馬鹿げてゐる。白いケツの穴にキスするつもりかい?
違ふだらう。何故ならそれは、『白人社会がやっぱクールだぜ』と言ってるやうなものだろ。さうではなく、何故ひとは自分自身でいられないのだらう
カール・クレイグ(デトロイト・テクノ第二世代)は、
デトロイト・テクノが白人に受けたのは、みんなデリックのせいだ。
彼がストリングスを多用したからだよ
となかば冗談めかして言ふ。
Carl Cox – 9 Hour Marathon DJ Set @ Space Ibiza Closing Party 2016 (BE-AT.TV)
- ※参考文献
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- 「野田努著 ブラック・マシン・ミュージック ~ディスコ、ハウス、デトロイト・テクノ~」

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