第70篇(ハミルトン) 強力な行政部 ~その単一性~ 皇紀2684年

 『ザ・フェデラリスト』は、アメリカ政治思想史上では、まづは第一に上げられる古典になってゐる。
 『ザ・フェデラリスト』は、三人(アレクザンダー・ハミルトン、ジョン・ジェイ、ジェイムズ・マディソン)が、思想家ではなく政治家が、政治活動の中で、当初は書物としてではなく、新聞紙上に次々に発表した全85篇のいはば論文集である。しかも耶蘇教暦1787年夏起草された連邦憲法案を擁護し、その反対論を論駁し、世論に訴へて憲法案の承認を確保しようといふ具体的、直接的政治目的をもって執筆された。

 譯出各篇の中から、第70篇(ハミルトン)の一部を以下に引用する。第70篇の譯出担当は、斎藤眞氏である。

 イギリスにおいては、国王は恒久的な行政首長であり、彼は行政の為には責任を負はず、その身体は神聖であるといふのが、公共の安全の為に確立された公理になってゐる。従って、イギリスでは国王への助言について国民に対して責を負ふべき一つの国政上の参議会[内閣]を国王に付置する事が最も賢明な方法であった。これなくしては、およそ行政部門には何らの責任体制も無い事になってしまふが、それは自由なる政府にあっては、およそ認めがたい事である。だが、そのイギリスの場合でも、参議会は自分達の与へた助言について責を負ふが、国王は参議会の決定には拘束されないのである。国王は、その職務の遂行にあたっては、自分の行為に関しては完全な主人であって、自分に付与された参議会に従ふのもこれを無視するのも、全く彼の自由なのである。

 しかし、共和国においては、全ての行政職はその職務上の行為に関して個人的に責任を負はなければならない。イギリス国制にあっては行政参議会の必要を主張する理由も、共和国の場合には当てはまらないし、かへって共和制に反する事になる。イギリスのやうな君主国においては、行政参議会は、行政首長[国王]の免責に対する代替物となり、ある程度行政首長が罪過無きように国家的正義に対して保障する人質になる。しかし、アメリカのやうな共和国においては、行政参議会は、憲法上意図され必要とされてゐる行政首長自身の責任を消滅するか、激減させてしまふ事にならう。

 行政首長に参議会を付置するといふ考へは、アメリカ各邦憲法で広く受け入れられてゐるが、これは元来、権力は一人の人間より多数の人間の掌中にあるほうが安全であるといふ共和制的な権力不信の公理に由来してゐるのである。もしこの公理が行政部の場合にも当てはまる事が仮に認められるとしても、その面での利点は、反対面での数多い欠点を償ふものにはならない事はやはり主張せざるを得ない。私としては、その原則は行政権には全く当てはまらないと思ふ。この点、寧ろ、かの著名なジューニアスがその言たるや「深遠かつ堅実にして天才的」と称へた著作家の「行政権は、それが単一である時こそ、限定される」といふ意見に明らかに賛成する。つまり、人民の不信と監視の対象としては、単一の対象であった方が遥かに安全なのである。一言にして言へば、行政部を複数化する事は、自由にとって都合が良いどころか、寧ろ危険なのである。

 行政部を複数化する場合に求められるべき[自由や権利への]安全性が、結局得られにくい事は、少し考へただけでも良くわからう。共謀を不可能にする為には、数を余程増やさなければならないし、さうでなければ安全性の根拠となるより、かへって共謀の危険の原因となってしまふ。個々人が結合した場合の信用や影響力は、彼らが別々になってゐる場合の信用や影響力より、遥かに自由にとって恐るべきものとなる。従って、権力が[一人ではなく]少数の人間の掌中におかれ、ある巧妙な指導者によって、彼らの利益や見解が一つの共同の計画に容易に結合されてしまふやうな場合には、権力が一人の人間の掌中に帰するよりも、遥かに濫用されやすく、また一度濫用されゝば遥かに危険なのである。といふのは、権力が一人の人間の掌中に帰する場合には、彼はまさしく一人であるといふ理由の為に、もっと厳重に監視され、すぐに疑はれ、しかも他の者と協同してゐる時程大きな影響力をふるふ事はできないからである。

※参考文献
  • 「A.ハミルトン・J.ジェイ・J.マディソン著 斎藤眞・中野勝郎譯 ザ・フェデラリスト」
  • A.ハミルトン・J.ジェイ・J.マディソン著 斎藤眞・中野勝郎譯 ザ・フェデラリスト

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