「世紀の愚策(ポーランド独立保障宣言)」をとらせたのはルーズベルト ~裏付けるポーランド政府の文書~ 皇紀2684年

 フーバーは、なぜチェンバレンがこれ程の方針転換をしたのか理解できなかった。その理由を探らうとした。

  • 一、チェンバレンは、自分が(過度な)宥和主義者ではないとアピールしたかった。
  • 二、英仏両国によるドイツに対する虚勢を張ったブラフ(虚仮脅し)だった。
  • 三、アメリカが英仏を支援するといふ期待があった。

 この三点を挙げたのは友人宛ての手紙(昭和14(耶蘇教暦1939)年5月)の中だった。フーバーが特に注意を払ったのは、第三の点であった。当時の軍事力から言えば、英仏の軍事力ではドイツに対抗できない事は誰にでもわかった。上記の第一、第二の理由だけでは、ドイツとの戦ひをポーランドの政治家の判断に預けてしまふ程の愚かな決断は、さすがにできないと考へられた。最も可能性が高いのは、アメリカからの何らかの干渉ではなかったかとフーバーは疑った。
 実際にルーズベルトがケネディ駐英大使を通じてチェンバレンに圧力をかけた事が確かめられた。それは戦ひが始まった後(昭和14(1939)年9月1日以降)の事である。ケネディ大使は、昭和15(1940)年10月には大使を辞め帰国した。ケネディはフーバーの住むニューヨークのアストリア・タワーをよく訪れ、意見交換する仲になった。フーバーはケネディ前大使に当時の事を聞いてゐる(第19章)。

 ジョセフ・P・ケネディは私に、「(本省)からチェンバレンの背中を押せ」との指示があった事を明らかにしてくれた。

 フーバーはケネディ大使の言葉を、海軍次官であったジェイムズ・フォレスタルの日記を使って補強してゐる。
 ルーズベルトが、チェンバレン首相の背中を押してポーランド独立保障宣言を出させる事に成功すると、今度はウィリアム・ブリット駐仏大使が、ルーズベルトの意を受けて、ポーランドに対独強硬策を取らせた。さうする事で、ダンツィヒ・ポーランド回廊問題を、ヒトラーとの外交交渉によって解決する道を閉ざしたのである。ブリット駐仏大使の工作については、後にポーランドに侵攻したドイツが、これを裏付けるポーランド政府の文書を押収し、公開した。しかし、FDR政権はこれを偽書だとして否定した。この点についてハミルトン・フィッシュ下院議員は次のやうに書いてゐる。

 ポーランドの駐仏大使であったウカシェヴィッチの(本省への)報告書もドイツが押収してゐる。その中でウカシェヴィッチ大使は、イギリスがポーランドに外交圧力をかけ対独戦争の危険を冒させてゐるとブリット駐仏大使に訴へてゐた。ウカシェヴィッチ大使は母国ポーランドの対独防衛が不十分な事を知ってゐた。ブリット大使が、ロンドンのジョセフ・ケネディ米駐英大使に対して、イギリス政府を通じて対ポーランド外交に圧力をかけるやう要請した事も書面には記されてゐた。
 FDR政権はドイツが公表したポーランド外交文書は偽書だと主張した。しかし私(フィッシュ)は本物であると信じてゐる。文書に関係したポーランド大使は存命である。偽の文書を発表しても、すぐにばれるのである。

 フーバーは、チェンバレンに「世紀の愚策(ポーランド独立保障宣言)」をとらせたのはルーズベルトだとして次のやうに結論づけてゐる(第19章)。

 ルーズベルト氏はポーランドに対しても、ダンツィヒ問題ではドイツとの交渉を拒否し強硬姿勢を取るやう圧力をかけた。ポーランドの頑なな姿勢は、ルーズベルト政権の意向の反映であった。

※参考文献
  • 「渡辺惣樹著 誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く」
  • 渡辺惣樹著 誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く

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