米国第31代大統領ハーバート・フーバーの歴史観の核とは ~同時代人が歓迎したミュンヘン協定と真の愚策はポーランド独立保障宣言~ 皇紀2683年

 耶蘇教暦1938(昭和13)年9月22日、ヒトラーは、チェンバレンとの再交渉の時に、ズデーテンラント全域の併合を要求し、これを文書にした(ゴーデスベルク覚書)。回答期限は9月28日だった。対チェコスロバキア戦争の最後通牒とも言へた。
 その回答期限の28日、ヒトラーから、24時間の猶予を決めたとの連絡が入った。この問題をチェンバレン英首相、ダラディエ仏首相、ムッソリーニ伊首相の四者で協議したいと伝へてきたのである。30日、ミュンヘンで四者会談が開催された。この会談でズデーテンラントのドイツ併合が決まった。当事者のチェコスロバキアは蚊帳の外であった。これが世界史の教科書で「ミュンヘン協定」と呼ばれてゐるものである。
 ミュンヘン協定を、戦後に書かれた釈明史観の教科書は、チェンバレンの過度な対独融和外交の象徴として記述する。しかし、当時のヨーロッパ各国は戦争が回避できた事を素直に喜んだ。その事は、帰国したチェンバレン首相をロンドン市民が熱狂的に歓迎した事からも分かる。国王ジョージ6世も喜んだ。帰国したチェンバレンをすぐにバッキンガム宮殿に招いてゐる。チェンバレンの降り立った空港(ヘストン空港)から宮殿までの道のりはわずか14キロメートルだったが、市民の歓迎で到着までに1時間半もかゝった程だった。
 現在の史書とは違ひ、同時代人はミュンヘン協定を歓迎した。フーバーもミュンヘン協定を評価してゐる。

 私は、ミュンヘン協定を(1938(昭和13)年9月)否定しようとは思はない。この協定でズデーテンラントはドイツ帝国に併合されたが、(ドイツ民族の多いこの土地をドイツから分離したのは)ベルサイユ条約の悪い置き土産であって、かうした事態になる事は避けられない事だった。これによって、暴れ馬のやうにロシア侵略を狙ってゐたヒトラーを閉じ込めてゐた門が開いた。二人の独裁者(ヒトラー・ナチスとスターリン・ソビエト)の不可避的戦ひの道が開けた。

 ミュンヘン協定を同時代人が、そしてフーバーが評価してゐる事は、歴史修正主義の歴史観を理解する上で重要である。同時代人は、チェコスロバキアの政治を必ずしも評価してゐなかった。あへて多民族国家となる事を選び、その領土を可能な限り拡大したやり方に、連合国首脳は、眉を顰めた。抱へ込んだ少数民族への配慮を約したが、それも守ってゐない。その上、共産主義国家ソビエトと相互援助条約(1935(昭和10)年5月)まで締結してゐた。

 フーバーは、『裏切られた自由』第19章(第1部第4編)でヒトラーのポーランド侵攻を深く考察してゐる。
 ヒトラー・ハリファックス会談(1936(昭和11)年11月19日)で、ハリファックス卿は、ベルサイユ条約によるオーストリア、チェコスロバキア及びダンツィヒに関する線引きの変更については反対しない、但しそれを平和的手段で行ふ事と述べた。フーバーも書いてゐるやうに、オーストリア、チェコスロバキアに関はる国境の線引き変更まで、一人の戦死者も出してゐない。ヒトラーの頭の中では、全てが英国外交との阿吽の呼吸通り、つまり「平和的手段」による枠組み変更のプロセスであった。
 当時のヨーロッパ諸国の指導者にとって、ヒトラーの次なる狙ひはダンツィヒとポーランド回廊問題の解決になる事は分かりきってゐた。従って、チェコ解体がどれ程チェンバレン首相の気分を害したとしても、ヒトラーとポーランドの二国間交渉を注意深く見守るのが英国の外交であらうと思はれてゐた。しかし1939(昭和14)年3月31日、チェンバレン首相は次のやうな唐突な発言をした(第19章)。

 私は今議会に次のやうに報告しなくてはなりません。ポーランドの独立を脅かす行動があり、ポーランド政府が抵抗せざるを得ないと決めた時に、我がイギリス政府には、ポーランド政府を全面的に支援する義務があります。ポーランド政府にはそのやうに伝へてあります。フランス政府も同様の立場である事を付言しておきます。同政府は、私がこの場でこのやうに発言する事を承認してゐます。

 これは英国のポーランド独立保障宣言だった。この発言には誰もが驚いた。フーバーもその一人だった。フーバーはチェンバレン首相との会談(1938(昭和13)年3月22日)の備忘録を残してゐた。その中で、ヒトラーは東に向かひ、スターリンとの衝突になるといふフーバーの考へにチェンバレンが同意してゐた事が記されてゐた。ところが、上記のチェンバレン首相の議会発言はその考へを180度変へたものだった。
 要するに、チェンバレンの議会演説は、イギリスが戦争するかしないかの判断をポーランドに預けてしまった事を意味したのである。
 イギリスに続いてフランスも同様の独立保障を行なった。これによってポーランドは強気になった。フーバーの驚きも尋常ではなかった。その思ひは次のやうに表現されてゐる(「編者序文」)。

 ヒトラーが東進したければさせるといふのがこれまでの考へ方だった筈ではないか。現実的に英仏両国がヒトラーのポーランド侵攻を止められる筈がない。これではロシアに向かふスチームローラー(ドイツ軍)の前に、潰して下さいと自ら身を投げるやうなものではないか。

 この視点はフーバーの歴史観(歴史修正主義)の核である。戦後の釈明史観の歴史書は、この世紀の愚策を意図的に書かない。そして同時代人の誰もが歓喜したミュンヘン協定をチェンバレンの愚策(過度の対ドイツ宥和政策)として描く。チェンバレンの独立保障宣言といふ世紀の愚策以前に愚策があった事にしたいからである。さうすれば「真の意味での愚策」から目を逸らす事ができるからである。

 フーバーは、なぜチェンバレンがこれ程の方針転換をしたのか理解できなかった。その理由を探らうとした。
 これへのフーバーの推察については、次回以降に譲る。

※参考文献
  • 「渡辺惣樹著 誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く」
  • 渡辺惣樹著 誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く

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