「英米合作經濟抗戦力調査(其一)」の判決部分の文章 ~大東亜(東アジア)戦争~ 皇紀2683年

 「陸軍省戦争経済研究班」は、国の経済抗戦力をPとし、関数 P = S(軍事供給力) / T(持久期間) で捉へ、軍事供給力と持久期間のバランスに着目した。そして、このシミュレーションの結論として、我が国が「二年程度と想定される短い持久期間で最大軍事供給力、すなわち最大抗戦力を発揮すべき」対象を、経済抗戦力に構造的な弱点を有する英国と結論づけた。

 この事を踏まへて、「英米合作經濟抗戦力調査(其一)」の判決部分の文章を一緒に見ていきたい。「判決」とは当時の言葉遣ひであって、今でいふ「結論」を意味する。
以下のデジタルアーカイブから閲覧できる。

東京大学経済学図書館所蔵資料(貴重図書(和図書))デジタルアーカイブ

また、『林千勝著 日米開戦 陸軍の勝算』の115頁~119頁(判決(一)英本国の~離間に努むるを至当とす。)にも資料として、掲載されてゐる。
 一目でおわかりのやうに、ここには一切「太平洋」は出てこない。どこからどう見ても太平洋戦争ではないのである。

 昭和十六年七月、杉山参謀総長ら陸軍首脳部への戦争経済研究班の最終報告は、現存する諸報告書その他諸文献を総合すると、「英米合作の本格的な戦争準備には一年余かかり、一方、日本は開戦後二か年は貯備戦力と総動員にて国力を高め抗戦可能。此の間、輸入依存率が高く経済的に脆弱な英国を、インド洋(及び大西洋〔独逸(ドイツ)が担当〕)における制海権の獲得、海上輸送遮断やアジア植民地攻撃によりまづ屈服させ、それにより米国の継戦意思を失はせしめて戦争終結を図る。同時に、生産力確保の為、現在、英、蘭等の植民地になってゐる南方圏(東南アジア)を自給自足圏として取り込み維持すべし」といふものである。
 正に時間との戦ひであり、日本は脇目も振らずに南方圏そしてインド洋やインドなどを抑へるべしであった。
 これに対して、杉山参謀総長は「調査・推論方法は概ね完璧」と総評してゐる。統帥の最高責任者としての言葉、「概ね完璧」は重い。帝国陸軍の合理的思考形態が、戦争戦略思想として、まさに「陸軍省戦争経済研究班」によって具現化されてゐた。「陸軍省戦争経済研究班」の結論は、帝国陸軍の科学性、合理性が指し示す方向そのものであった。

 日本軍のインド洋での作戦を含む西進思想は、此処から導き出されたものであった。そして、ドイツの対英米戦略との密接な関係性、あるいはほゞ完全な一致があった。
 帝国陸軍首脳部は、戦争経済研究班の科学的な研究結果を基に、昭和十六年七月時点で、ドイツについて、幻想を抱かず冷静・客観的に見てゐた。英米と総力戦を戦ふドイツにとって、生産力確保の為にはソ連の占領が必須であった事、然し乍らドイツの対ソ連戦が膠着状態となる可能性があった事、それがドイツにとり大きなリスクである事が、戦争経済研究班によって事前に十分に研究されてゐた。
 戦争経済研究班は、「独逸の経済抗戦力は本年(1941年)一杯を最高点とし、四二年より次第に低下せざるを得ず」と断じてゐる。また、「独逸は今後対英米長期戦に耐え得る為にはソ連の生産力を利用する事が絶対に必要である。従って独軍が予定する如く、対ソ戦が二ヶ月間位の短期戦で終了し、直ちにソ連の生産力利用が可能となるか、それとも長期戦となり、その利用が短期間(ニ、三ヶ月後から)に為し得ざるか否かによって、今次大戦の運命も決定される」、「独逸の対ソ戦が、万一長期化し、徒に独逸の経済抗戦力消耗を来すならば、既に来年度以降低下せんとする傾向あるその抗戦力は一層加速度的に低下し、対英米長期戦遂行が全く不可能となり、世界新秩序建設の希望は失はれる」とドイツの行く末のリスクについて正確に把握してゐたのである。

 さらに戦争経済研究班は、「独逸が非常に長期に亘る対英米戦を遂行する場合には、独逸の不足するタングステン、錫、護謨を供給する東亜との貿易の回復、維持を必要とす。若し長期に亘りシベリア鉄道不通となる場合、欧州と東亜との貿易回復は、独逸がスエズ運河を確保し、又我国がシンガポールを占領し、相互の協力により印度洋連絡を再開するを要す」と、ドイツ側の経済抗戦力の視点からの日本の戦争戦略との連結にも留意してゐた。以上は、「独逸經濟抗戦力調査」に判決(結論)として明記されてゐる。
 この「独逸經濟抗戦力調査」の判決には、「独逸經濟抗戦力の動態」と題する図が添付されてゐる。

独逸經濟抗戦力の動態

(図弐: 林千勝著 日米開戦 陸軍の勝算 130頁)

この図を見れば、ドイツが経済抗戦力を高水準で維持する為には、1941年末から早速ソ連の生産力を利用する事が必須である事が一目瞭然である。
 因みに、「陸軍省戦争経済研究班」の調査報告書は、科学書としての体裁がとられてをり、元号ではなく西暦が使用され、横書き文章は、当時一般的な右から左ではなく、左から右へと記載してゐた。

 このやうに、帝国陸軍は、科学的な調査・報告に基づいて、大きなリスクを認識しつゝも、少しでも可能性ある合理的な負けない戦争戦略案を昭和十六年七月には持つに至ってゐた。帝国陸軍は、戦略的に正しい合理的な戦ひを展開しようとしてゐたのである。

 さて、陸海軍戦争指導関係課長らによる正式討議において策定された「対米英蘭戦争指導要綱」は、昭和十六年九月廿九日 大本営陸海軍部にて正式決定となった。

 当時、国策策定の実務上の中心的存在として、この正式討議に参画してゐた陸軍省軍務局軍務課高級課員石井秋穂大佐といふ人物がゐた。この石井秋穂大佐は「陸軍省戦争経済研究班」と常に密に連携をとってゐた。昭和十六年四月十七日大本営海軍部で決定した「対南方施策要綱」における「対英米国力上、武力南進はしたくてもできない。しかし、全面禁輸の場合は、自存自衛の為に武力行使」といふ趣旨の結論も、「陸軍省戦争経済研究班」の研究成果を基としてゐる。
 石井秋穂大佐は「陸軍省戦争経済研究班」を「秋丸中佐は金融的国力判断を大規模にやって何回も報告してくれた」、「各方面と連絡してよい作業をしてをった」と、後に著はした『石井秋穂回想録』においても大いに評価してゐる。この『石井秋穂回想録』は、防衛省防衛研究所にて原本を閲覧できる。

 そして十月十七日の東條内閣の発足後、この「対米英蘭戦争指導要綱」策定に参画してゐた石井秋穂大佐らが、「対米英蘭戦争指導要綱」の内容を、「⑨戦争終末促進の方略」を中心に継承・編集したものが、「対英米蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」である。
 「対英米蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」は、昭和十六年十一月十五日 大本営政府連絡会議にて、大日本帝国の戦争戦略、国家戦略として正式決定された。

 先に、「一切「太平洋」は出てこない。どこからどう見ても太平洋戦争ではない。」と書いたが、昭和十六年十二月十二日、日本政府は、東アジアの解放の意を込めて、この戦争に「大東亜(東アジア)戦争」と命名する閣議決定を行った。この戦ひは、アジアにおける欧米列強の植民地支配打倒をも目指したものであった。
 だから大東亜戦争なのである。

陸軍省戦争経済研究班(秋丸機関 陸軍省主計課別班) ~調査報告書「英米合作經濟抗戦力調査(其一)」~

※参考文献
  • 「林千勝著 日米開戦 陸軍の勝算」
  • 林千勝著 日米開戦 陸軍の勝算

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