[三・一五事件] 左翼旋風時代の出現

大正十五年六月、徳田球一がモスクワから持ち帰った指令に基づき十二月に結成された日本共産党は、かゝる猛烈な客観情勢を巧に捉へて猛烈な非合法革命闘争を展開し始めた。当時勤労階級の政党として一番左に在った「労働農民党」及び最左翼の全國的労働組合組織として注目されてゐた、「日本労働組合評議会」並に青年層の戦闘的左翼団体として結成された「全日本無産青年同盟」の三団体は、殆んど日本共産党の指導下に置かれ、経済闘争の面に於ても破壊的な戦術を用ゐた組織的ストライキの激発となり、政治的な面に於ては、非合法的な暴力革命へと、その闘争形態が急速に昂って来た。
日本共産党のこの闘争方針は、結党直後の昭和二年初め党代表として密かにモスクワに渡った渡邊政之輔、徳田球一、福本和夫、佐野文夫、河合悦二、中尾勝男等がコミンテルンの批判を受けて同年十一月に持ち帰った所謂二十一年テーゼによったもので、いきなりブルジョア政府を顚覆してプロレタリア独裁政権(共産党独裁)を樹立せよといふ労農革命戦術を採用したものであった。即ち国際資本主義の現段階をマルクスの言ふ資本主義最後の段階たる金融独占支配の崩壊過程にあるものと規定し、日本資本主義の分析についても、「資本主義制度崩壊の前夜」と認識判断し、この崩壊の前夜にある日本資本主義の最後の支柱たる天皇制打倒を中心スローガンとしたプロレタリア革命突入への闘争を一挙に闘ひ取れと言ふにあった。
この情勢を密かに偵察してゐた内務省は、昭和三年三月十五日未明を期して一斉に共産党関係の大検挙を敢行したのである。これが世に所謂三・一五事件であるが、この一斉検挙によって起訴収容されたもの五三〇名(治安維持法違反ー共産党加入者)に上り取り調べを受けたもの五千数百名に及びその中には東京、京都の帝大を始め大学、高専の学生二千数百名があった。この事件は同年四月十日内務省、司法省両当局より発表され、同時に「労働農民党」「日本労働組合評議会」「全日本無産青年同盟」の三団体は内務大臣より結社禁止処分を受けた。
この事件の発表は、新聞に大々的に報ぜられ、街には号外が飛び、社会に一大衝撃を与へた。政治家は狼狽し、資本家は戦慄し、思想界にも大きな波紋を投じた。
「天皇様の噂をしただけで不敬罪になる。いや天子様をじかに拝むと眼がつぶれる」と思ってゐた素朴な一般國民は、この天皇を倒して共産党の天下にしようといふ企てを持った者が、日本に何百人も何千人も居った事を知って眼を廻す程驚いたのである。この事件は、永い封建の伝統に閉されて来た社会に、無警告で投下された原子爆弾であったとも言へるであらう。別な角度から見れば、確かに「新しい眼」を開かれたのであったが、しかしこの三・一五事件に始った「思想旋風」こそ、日本の運命を決した軍閥政治へのスタートとなった事を見落してはならない。

※参考文献
  • 「三田村武夫著 大東亜戦争とスターリンの謀略」

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