古文辞学。または徂徠学とは、語孟の道徳から進んで、六経によって代表される政治、文化、経済等諸汎の文化価値に赴いた点に於いて、時代的には、孔子から更に先王に遡った所に発展を見得る。村岡典嗣氏は、『徂徠学を以て仁斎学と比較すると、儒学即道徳学としては、仁斎学を準備としてその客観的若しくは外面的方面に、即ち性天道に対する文章の方面に究極させたといふべきが、之を古代主義と観る。』と解してゐる。つまり、仁斎学たる語孟に立返るを準備として、之を更に遡り、先王之道として傳へるものたる詩書礼楽易春秋の六経を、外面的な規範として天下を治めるといふ事である。即ち、この道を闡明し、それを規範として天下を治める事が、儒学の目的に他ならない。
礼楽論は、近世江戸時代中或は後期(十八世紀後期)の思想空間において、他方には、それを嫌悪する反徂徠の儒家の立場を構成していく。反徂徠の儒家から、礼楽論は、「先王の道」を巡る発言とともに「物子(物茂卿 = 徂徠)の家言」とみなされた。徂徠門流に連なりながら、軈て反徂徠の立場に移行する亀井昭陽は、「家言なるものは私言なり。以て言を天下に公にす可べからず。物家の奴隷に非ずんば、また誰かこれに従はん」といふ。「先王の道」を巡る徂徠の言は、凡そ天下の公言としての普遍性を持ち得ない、いはば「家言」としての特異な偏りをもった、寧ろ「私言」だと昭陽はいふのである。そして徂徠の言に盲従し、それを口に繰り返す者は、たゞ「物家の奴隷」のみであるといふ昭陽の言は厳しい。
近世後期の儒家に「物子の家言」とみなされ、「私言」とみなされた徂徠の「礼楽」を巡る言説は、しかし明治の啓蒙とともに蘇る。まづ明治の啓蒙とともに蘇る徂徠から見よう。
徂徠は確かに明治啓蒙の言説のうちに蘇る。維新を前にした若き学徒西周が遂行した最初の知の転換は、「空理にして日用に益なきもの」として朱子学を、いはば見限る事とともに為されたものであった。徂徠はこの知の転換とともに再発見されるのである。「礼楽の貴ぶべく、人欲の浄尽すべからざる」とは、西が悟った徂徠再発見の言である。心身の外部的な陶冶としての「礼楽」の意義が、従って人間に向けられる外部的、社会的な視線の重要性が改めてここで再発見されるのである。「先王の道は礼楽のみ」と説く徂徠が再発見、再評価されるのは、このやうにしてである。西は後に『百一新論』で、政治(法)と道徳(教)の区分・差異を論じるが、西におけるこの区分と差異化の遂行にあたって、徂徠と彼の説く「先王の道は礼楽のみ」の命題が改めて西に想起されるのである。
維新としての治政としての刷新は、「法と教と修己と治人との区別」の確立の必要としてまづ西に認識される。次回は、この点から辿っていきたい。
- ※参考文献
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- 「子安宣邦著 江戸思想史講義」
- 「村岡典嗣著 増訂日本思想史研究」
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