人間的自然か?それとも作為か? ~荻生徂徠「礼楽刑政」の道~ 皇紀2679年

 近世後期の儒家に「物子の家言」とみなされ、「私言」とみなされた荻生徂徠の「礼楽」を巡る言説は、しかし明治の啓蒙と共に蘇る。
【徂徠学 ~ 「物子の家言」とみなされ、軈て明治の啓蒙とともに蘇る徂徠 ~】

 明治啓蒙の思想家達に「法」と「教」との明確な区分の必要を示唆し、國法の強固な制定者であるべき主権者の概念の確立を促した徂徠の「先王の道」や「礼楽」をめぐる言説は、18世紀後期の思想空間に呼び起こされた〈反徂徠〉といふ言説の反動や非難があったのである。かやうな明治啓蒙の代表者である西周は、「治心」と「安民」、即ち道徳と政治との区分の明確化と、「安民」的関心の対象としての人間の外面的態様へ、即ち社会的存在としての人間の態様への視線の確保、確立を求めようとした。徂徠が西において喚起されたのは、この事に他ならない。

 明治啓蒙のもう一人の代表者である加藤弘之は、恰もホッブズの文脈に従ふかの如く、自然状態における人間が「唯各人個々の闘争を以て充され」てゐるあり方から脱し、「協同一致して社会を組成する」為に人々が「相契約し」た事、そこから「社会統一の大権を委託」された主権者としての「大英傑即ち君主」が成立する事を言ってゐる。しかしここでの加藤による社会契約への言及は、あくまで「社会統一の大権」の委託、そして「大権の委託を受けた」主権者の成立に関はってである。加藤のホッブズの引用は、軈て、國家統治の絶対権を所有するやうな主権者概念の成立に向けた動きに影響を与へていくのである。こゝには、絶対王政の擁護論といふ昭和初期の日本で鼓吹されたホッブズ政治思想の主導的な代表例があると言へる。

 「礼楽刑政」の道の主唱者徂徠とは、18世紀後期の徳川思想史にあっては、「皆功利に本づく」として激しい非難のうちにあった。18世紀後期の言説世界において「功利」の説として排斥された徂徠は、明治啓蒙の思想家達と共に蘇る。しかし蘇ったのは尾藤二州が「御成敗式目」の論の如きものとみなした徂徠〈礼楽論〉である。近代國家日本の成立期に西周に「法」と「教」との明瞭な区分を教へ、加藤弘之に國法の強固な制定者たる「主権者」概念の確立を示唆したその徂徠とは、他ならぬ近世後期社会にあって「功利」の論者として排斥されたその徂徠であった。

 だが明治啓蒙と共に蘇った徂徠とは、〈制作論〉における徂徠ではない。子安宣邦氏は、〈制作論〉について、「制作とは、人間的自然を踏まへた、或いはそれを欠く事のできない契機とした人間による自己の外部化の営み」であると述べてゐる。つまり明治啓蒙と共に蘇った徂徠とは、それではなく寧ろ、〈自然〉への対抗関係における〈作為〉の論者として規定される徂徠であった。〈制作論〉が踏まへる〈人間的な自然〉は、〈絶対的な作為主体の〉論、即ち「主権者」論にあっては割愛される。恰もそれは「自然権」をめぐる議論の一切が割愛されて「主権論」者としてのみ引用され、受容された明治のホッブズのやうである。近代國家日本に再生し、引用された徂徠とは〈作為〉の論者或いは「主権論」者徂徠であった。しかし子安氏は、「徂徠〈礼楽論〉を、〈自然〉への対抗関係における〈作為〉の立場としてよりは、寧ろ〈制作論〉と捉へるべき」と解してゐる。

 次回は、徂徠の「礼楽刑政」の道、「先王の道」とは何であるか?といふ本題に触れていく。そして「功利教」的な思想家徂徠を、己の意に反して見出してしまった山路愛山についても。

※参考文献
  • 「子安宣邦著 江戸思想史講義」
  • 子安宣邦著 江戸思想史講義

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