靖國神社における水戸藩の祭神数 ~幕末殉難者と天狗党の乱~ 皇紀2680年

皇紀2680年1月3日
あけましておめでたうございます。

表1 幕末殉難者の旧藩別合祀者数ベスト数5 水戸藩士民の事件別合祀者数

(表1: 吉原康和著 21頁)

 表1は、陸軍省告示など官報に発表された合祀者の人名と『忠魂史』を基に、幕末殉難者の旧藩別合祀者数ベスト数5を、参考書籍『靖国神社と幕末維新の祭神たち』の著者である吉原康和氏が集計したものである。

前回、靖國神社、靖國の祭神とは何か?につき、些少触れたやうに、戊辰戦争の「官軍」(政府軍)側の戦没者を祀り、そして幕末殉難者を合祀する事にあった。靖國神社の前身の東京招魂社の創建を主導し立案したのは、長州藩出身で日本陸軍の創始者である大村益次郎であった。東京招魂社の創建は、長州藩が主導したのである。

表2 第一回合祀の府県別合祀ベスト5

(表2: 吉原康和著 39頁)

 表2は、戊辰戦争関係で最初に合祀された明治二年の3588人を府県別に吉原康和氏が集計した図である。戊辰戦争の主力となった旧長州藩と旧薩摩藩を中心とする山口(570柱)、鹿児島(553柱)両県のほか、戊辰戦争で反政府軍の「奥羽列藩同盟」のエリアにあった秋田県(422柱)や新潟県(151柱)、そして列藩同盟の隣接に位置した茨城県(132柱)などで合祀者が目立った。

 しかし、表1の如く、旧藩別の出身地で最も多くの祭神を出したのは、討幕の主力となった長州藩や薩摩藩ではなかった。「天下の副将軍」とも呼ばれた徳川御三家の一つである水戸藩だった。支藩(親類)の宍戸、松川両藩を含む水戸藩出身の祭神数は、約1500柱と、幕末殉難者を対象とする祭神全体の半数にのぼった。実に2人に1人は水戸藩出身者であった。討幕運動の原動力となった長州藩の合祀者は705柱と、水戸藩の半分にも満たなかった。

 水戸藩出身者がかくも多いのはなぜか。
表1の下図は、水戸藩士民が関係した事件別の合祀状況を集計したものである。これをみれば、同藩出身者がいかに幕末史を彩る数々の事件に関与してゐたかゞわかると同時に、同藩士民の合祀者が際立って多い要因も歴然である。合祀者が1300柱以上と天狗党の乱の参加者が突出して多いからである。
 天狗党の乱は、元治元年(1864)三月、同藩の尊攘激派で藤田東湖の四男の藤田小四郎らが幕府に攘夷の実行を迫り、自らも攘夷の先頭に立つことを企てて決起した衝撃的な事件であった。

 幕末殉難者の祭神で水戸藩に次いで二番目に多かったのは長州藩出身者で、合祀回数は七回と旧藩の中で最も多かった。水戸藩と二番目に祭神数が多かった長州藩を合はせると、祭神数は全体の七割を超えたことであらう。

 次回以降、水戸藩と長州藩との間で交はされた盟約、そしてこれこそ幕末の政局転回を決定づけたことをこのブログに記述していく。

※参考文献
  • 「島田裕巳著 靖国神社」
  • 「吉原康和著 靖国神社と幕末維新の祭神たち」
  • 島田裕巳著 靖国神社 吉原康和著 靖国神社と幕末維新の祭神たち

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