中曽根康弘元総理大臣による靖國神社公式参拝 ~占領憲法有効誤認下の厄介な政教分離原則~ 皇紀2679年

 中曽根康弘元総理大臣が令和元年11月29日に、逝去した。中曽根氏は、昭和60年8月15日に公用車で靖國神社に赴き、内閣官房長官と厚生大臣を伴った。拝殿では「内閣総理大臣 中曽根康弘」と記された生花を供へ、その献花料3万円は公費として支出した。
 たゞし、参拝する際には、二拝二拍手一拝の形式はとらず、10秒間にわたって深く一礼しただけだった。しかも手水(ちょうず)は使はず、宮司の祓ひも受けなかった。松平永芳宮司は、一礼と手水を使はない事は認めたものゝ、祓ひを受けなければ参拝にならないとし、目立たないやうに陰祓ひをすると事前に伝へ、当日は中曽根氏を出迎へなかった。中曽根氏がさういった方法をとったのは、占領憲法有効下においての政教分離の原則に反しないやうにするためだった。そこには、靖國神社法案についての内閣法制局の見解が影響してゐた。

 靖國神社法案は、第61回國会では、提案理由の説明さへ行はれない盡、8月5日に廃案になってゐる。それ以降も第63回特別國会(昭和45年)、第65回國会(昭和46年)、第68回國会(昭和47年)と続けて提案されたものゝ、いづれも廃案になってゐる。昭和48年の田中角栄政権のもとでの第71回國会でも提案され、この時は継続審議になり、翌昭和49年の第72回國会では、4月12日に衆議院の内閣委員会で自民党によって単独強行採決された。衆議院の本会議でも単独採決されたが、参議院では廃案になってゐる。
 靖國神社法案が成立しなかったのは、他の宗教団体をはじめ各方面からの反対があったからだが、内閣委員会で強行採決がなされた後、内閣法制局が出した「靖國神社法案の合憲性」といふ見解も大きな役割を果たした。
 その見解は、「祝詞」は「感謝の言葉」に変へ、「修祓の儀」や「御神楽」は別の形式にし、「降神、昇神の儀」は止め、「拝礼」は二拝二拍手一拝に拘らず形式を自由にして、神職の職名を変更し、鳥居の名称についても検討する必要があるといふものだった。これに対して靖國神社側は、さうなれば「靖國神社は神霊不在、言はば正体不明の施設に堕する事は間違ひない」と反駁したが、内閣法制局の見解は、占領憲法有効下の政教分離原則のもとで、靖國神社の國家護持を進める事は、根本的に矛盾してゐる事を示してゐた。

 話を戻すが、かやうな中曽根氏のとった方法は、靖國神社の側にしてみれば、とても正式な参拝とは云へないものであった。それでも参拝後に中曽根氏は、記者団に対して、「首相としての資格において参拝しました。勿論所謂公式参拝であります」と、公式参拝である事を明確にした。中曽根氏は、首相に就任して以来、この公式参拝に向けて地ならしを行ってゐたのである。

 ところが中曽根氏は、公式参拝に踏み切った後の昭和60年秋の例大祭での参拝を見送り、それ以降、首相在任中に靖國神社を参拝する事はなかった。それは支那等からの反発を招いたからである。占領憲法有効下の政教分離原則に抵触するかどうかだけではなく、敵國による外圧(内政干渉)を招いたのは、これがはじまりであった。自身ブログでもこの点はもっと深く考察していきたいので、次回以降記述更新していく。
 畢竟、占領憲法有効論が諸悪の根源である事は云ふまでもない事だが、これは靖國問題を一層厄介にしたからである。次に靖國神社に参拝した首相は、中曽根氏公式参拝の11年後、平成8年7月29日の橋本龍太郎氏の時であった。

 抑も靖國神社、靖國の祭神とは何か?
 靖國神社は、明治2年(1869)6月、戊辰戦争の「官軍」(政府軍)側の戦没者を祀る「東京招魂社」として東京の九段坂上(東京都千代田区)に創建されたが、もう一つの大きな柱は幕末動乱期に天皇に忠義を尽くした政治的な國事殉難者を合祀する事にあった。東京招魂社が創建される以前、つまり嘉永6年(1853)のペリー来航から戊辰戦争が始まる前までの15年間に國事運動に奔走し、命を落とした人々である。

 東京招魂社が創建されるまでには前史があった。それは京都で行はれた二つの祭典である。安政5年(1858)の安政の大獄以降、尊皇攘夷を志して亡くなった志士の霊を祀ったのがはじまりとされる。この創建の前史からも、次回以降に徐々にまとめていく。

 中曽根康弘元総理大臣に対し、謹んで哀悼の意を表します。

※靖國神社法案
 戦後靖國神社は、GHQによる神道指令の影響によって、國の管理を離れ、民間の一宗教法人へと改組されたわけだが、現実に、國との関係を断ち切るわけにはいかなかった。何故なら、戦没者を合祀する時に、誰を選ぶのか、その名簿を作る事は、靖國神社自身には不可能だったからである。情報もなければ、それを処理する能力も、一神社には備はってゐなかった。
 その際に、遺族援護法が重要な意味をもってくる。靖國神社も認めてゐるやうに、遺族援護法の対象者がその盡戦後の靖國神社の合祀となったからである。その際、遺族援護法の対象者を定め、その名簿を作成する事は、厚生省復員局と厚生省の外局としてスタートした引揚援護庁が統合され昭和29年に生まれた厚生省引揚援護局の役割となっていく。
 靖國神社への戦没者の合祀について、その事務手続きを司ってゐたのは、厚生省(引揚)援護局であった。要するに國が靖國神社を靖國神社たらしめる重要な作業を担ってゐたわけで、その点では、靖國神社が國家によって管理されてゐた戦前、戦中の体制をその盡引き継いでゐたわけである。
 それが軈て、靖國神社そのものを國家によって管理運営する「國営化」、或いは「國家護持」といふ構想に発展していく。ところがその際に、占領憲法有効下においての政教分離の原則に抵触するかどうかが議論になった。
このやうな経緯から、昭和31年3月14日に自民党は、「靖國○社法草案要綱」を、その直後の3月22日には、社会党が「靖國平和堂(仮称)に関する法律草案要綱」を発表した。これに対し、日本遺族会は、昭和31年3月に、組織の内部にこの問題を討議する小委員会を設置し、4月には「靖國神社法案(仮称)意見書」を衆議院の海外同胞引揚特別委員会に提出する。それは自民党の再検討を求めるもので、靖國神社といふ名称は変更しない、靖國神社は國事殉難者の「みたま」を奉斎し、その遺徳を顕彰・慰霊するもので、その特殊性と伝統を尊重することを要求してゐた。
 かうした動きを受けて自民党は、昭和38年6月に党内に「靖國神社國家護持問題等小委員会」を設ける。しかし、すぐに法案がまとめられ、それが國会に提出されたわけではなかった。昭和44年に、靖國神社が創立100年を迎へた際、時の総理大臣だった佐藤栄作氏が靖國神社國家護持法案の制定に積極的な姿勢を示す事で、やうやくその年の6月30日に開会中の第61回國会に提出された。
 これ以降、靖國神社法案として5回提出される事になる。これは日本遺族会や靖國神社が望んだ方向で國家護持を実現しようとするものだった。たゞ、この法案は、占領憲法有効下の政教分離原則に違反する可能性をもってゐた。

※参考文献
  • 「島田裕巳著 靖国神社」
  • 「吉原康和著 靖国神社と幕末維新の祭神たち」
  • 島田裕巳著 靖国神社 吉原康和著 靖国神社と幕末維新の祭神たち

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