元禄15年12月14日(1703年1月30日) 赤穂浪士討ち入り 〜皇紀2679年〜

元禄15年12月14日(1703年1月30日)は、赤穂浪士討ち入りの日です。
毎年12月14日に、兵庫県赤穂市で、赤穂義士祭が開催されてます。今年は第116回目です。↓

一方、泉岳寺には、寺坂吉右衛門信行と萱野三平重実を合はせて、48人の赤穂浪士が埋葬されてゐます。
泉岳寺の赤穂浪士の墓所配置図を添付した私の過去Tweetです。↓

さて、まづは、浅野内匠頭の辞世の句を抑へませう!↓
『風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん』

そして、自身twitterでも毎週流してるページです。↓
[赤穂浪士と山鹿流]

要点を以下に記します。

なんと言ってもこれですね↓
『吉良上野介と浅野内匠頭の確執は、「爺の若者いじめ」のようなものではなく、山鹿流という皇室尊崇を説いた学問を学んだ内匠頭と、幕府将軍家こそ大事とする吉良上野介との思想の対立がある。』

上記の説明としてかうあります。↓
『寛文5(1665)年に、山鹿素行が幕府に睨まれて赤穂に流罪されてきたとき、その山鹿素行をなんと1000石という家老待遇の高禄で迎え入れた。
そして子や孫、家臣達に山鹿素行の講義を受けさせ、山鹿流兵学を赤穂藩の学問の柱に据えています。』

山鹿素行は、『中朝事実』といふ書を著してゐますが、この『中朝事実』について、以下の如くあります。↓
『孔子の教えはありがたいが、考えてみると、そのありがたい教えを実現しているのは、なんのことはない、日本である。
たびたび政権が交代し、虐殺非道が行われる支那は「中華」などと、とてもじゃないが言えません。
君民一体となって理想の国家を築き上げている国こそが「中つ朝」、すなわり「中華」そのものであるとするなら、それはまさに日本である。』

この視点は、大変重要であり、これによって、まさに赤穂義士による討ち入りは、明治維新の先駆けだった、とも言はれてゐるのです。

また、番外編といふわけでもありませんが、よく、山鹿流陣太鼓は存在しなかったかのやうな言説が聞かれますけど、私は、実際に山鹿流陣太鼓は存在し大石は打った、と思ってます。以下に参考記事あり。↓
[実在した山鹿流陣太鼓]

さらには討入り装束を解説してるサイトもあります。


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