水戸藩とは。天狗党と諸生党 ~靖國合祀~ 皇紀2680年

前回記事で、一部分、天狗党の乱について触れた。たゞ、天狗党といっても藤田東湖が逝去された後、「激派」と「鎮派」の二派に分かれてゐた。激派とは尊攘激派の事で、安政五年(1858)八月、朝廷から水戸徳川家に下された「戊午の密勅」返納反対派である。藤田小四郎や、桜田門外の変などを起こした金子孫二郎や高橋多一郎らであった。

「桜田門外の変」には続きがあった

「鎮派」と呼ばれたのは、密勅を幕府でなく、朝廷に返納する事を主張した会沢正志斎を中心とする尊皇攘夷穏健派の人達である。これに対し、天狗党に対抗して同年五月、水戸藩の門閥派の上級藩士を中心に発足する武力組織が諸生党である。水戸藩士の子弟が学ぶ藩校が弘道館の書生(学生)が多かった事が、その由来とも言はれる。
諸正党は時には「鎮派」と連合する事もあったが、「激派」とは激烈な班内抗争を繰り広げ、両派合はせて三千人以上が死没し、同藩出身者で維新後の(新)政府に登用された高官は皆無に近い状況を招いた要因とされる。

ところで、幕末の政局転回を決定づけた軍事同盟と言へば慶応二年(1866)二月の薩長同盟が有名であるが、実はその六年前に水戸藩と長州藩の有志の間で「成破の盟約」が交はされてゐた。
「丙辰丸(へいしんまる)の盟約」とも呼ばれる盟約は万延元年(1860)7月19日、品川沖に停泊中の長州藩の軍艦「丙辰丸」(艦長・松島剛蔵)内で、同藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)、松島剛蔵と水戸藩の西丸帯刀、岩間金平らとの間で結ばれた。
丙辰丸に乗り込んだ西丸帯刀は「今為すべき事は、二件に止まる。一は破で一は成である。破とは第二の桜田事件を起こすか、或いは横浜の外人を鏖殺する事である。成とはその騒ぎに乗じて幕府に建言して正義の侯伯を要路に立てて政治を刷新する事である。貴藩はどちらが難しいと思はれるか」と問ひ、桂や松島が「破の方が難しからう」と答へると、西丸は「では我が藩が破に当たらう。貴藩はよろしく成をなされよ」と述べた(小野寺龍太『幕末の魁 維新の殿(しんがり)』)といふ。
この同盟は桜田門外の変後の世情騒然とした中で両藩の尊攘派が手を結んだものであったが、両藩を代表する責任者同士の盟約ではない。しかも、幕府要人や外国人を襲撃する破の役割を水戸藩が担ひ、それに乗じて長州藩が幕政改革を果たすといふ水戸藩にとって分の悪い同盟であったが、その後の幕末史はこの盟約通りの展開となる。とりもなほさず、水戸藩の尊攘激派はこの盟約に基づき、体制打破に突き進んだ。この結果、実におびたゞしい犠牲者を生み、水戸藩は維新前に人材が枯渇した。その水戸藩の多大な犠牲と恩義に報ひたのが、20数年後の水戸藩士民への大量の靖國合祀と位階の追贈(贈位)だった。

水戸藩は幕府派の諸生党との藩内抗争で維新前に人材が根絶してしまって、明治期、中央に発言力のある政治家は、香川敬三ぐらゐしかゐなかった。それにも関はらず、水戸藩出身者の数多い合祀や贈位が可能になったのは、他藩出身で水戸藩に同情的な理解者が存在したからであり、その代表的な人物は、土佐藩出身で宮内大臣などを歴任した田中光顕だった。

次回は、水戸藩出身、ひいては天狗党の生き残り組と土佐藩出身の田中光顕について、もう少し記述しておきたい。

※参考文献
  • 「島田裕巳著 靖国神社」
  • 「吉原康和著 靖国神社と幕末維新の祭神たち」
  • 島田裕巳著 靖国神社 吉原康和著 靖国神社と幕末維新の祭神たち

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