昭和12(1937)年7月7日夜半、盧溝橋付近に駐屯してゐた日本軍、國民党軍双方に発砲がされ、互ひに銃撃を受けたものと思ひ込み、日本軍と國民党軍が交戦状態となった。盧溝橋事件である。双方、現地解決・事件不拡大方針で交渉、事件発生後5日目に、日支両軍は停戦協定を結んだ。
7月8日「盧溝橋事件」発生の翌日、支那共産党は「対日全面抗戦」を呼び掛けてゐる。共産党は、事件が起きる事を知ってゐたのである。つまり、共産党の工作員が夜陰に乗じて、盧溝橋付近に駐屯してゐた日本軍・國民党軍双方に発砲し、両軍が交戦する様にし向けたのだ。その証拠に、共産党軍の兵士向けのパンフレットには、
「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の國家主席)の指示によって行はれたものである」
とはっきりと記述されてゐた。又、昭和24(1949)年10月1日、「中華人民共和國」成立の日、周恩来首相も、
「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・國民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」 と発言してゐるのである。
それゆゑに、中川八洋氏は、「盧溝橋事件は、スターリン/毛沢東/近衛文麿の三者が通謀して仕組んだものでないか、の核心的仮設の検証であるべきだらう。」と述べてゐる。
この北京郊外の盧溝橋における北支(北支那:華北地方)限定であった衝突を、日本政府は「北支事変」と命名し、これを公式呼称とした。7月11日の事であった。この「死者ゼロ、負傷者ゼロ」の小さな衝突事件を何故、近衛文麿首相は、「北支事変」と名づけたのか?真実を知る重要な手がかりとも云へる。
ところが、8月に上海でも軍事衝突が起きる(第2次上海事変)と、昭和12年9月2日、閣議で北支事変を「支那事変」と改称を決定した。この第二次上海事変のきっかけの1つであった大山事件に際し、中川八洋氏は、『スターリンは、國民党軍に潜入させてゐたコムニストで毛沢東軍に本籍を置く張治中(京滬警備司令官)に命じ、上海に駐留してゐた日本の海軍陸戦隊の大山勇夫中尉とその運転手(一等水兵斎藤與藏)の二名を射殺させた。8月9日であった。』
さらに、
『続いて8月14日、日本の第三艦隊旗艦「出雲」 ばかりか、海軍陸戦隊本部や日本人小学校を爆撃させた。』と説明してゐる。
詳しくは以前の投稿記事にて、引用させて頂いてゐる。中川八洋氏の史観そのものであるが、極端な表現を些少考慮しても、多いに参考にならう。↓
そして盧溝橋事件から約半年後の昭和13(1938)年1月16日、近衛文麿総理は、『國民政府(蒋介石)を対手とせず』声明を発表した。これにより、講和の相手を否定したので、日本は講和の道を自ら閉ざし、支那と永遠に戦闘するしかない事態に陥ったのである。
以下に記した投稿記事内で、「講和条約(戦争終結)を結べなくして日支事変を永遠に継続させる」方に何故向かったのか?について、これまた中川八洋氏の史観を反映させてもらった次第ではあるが、参考にならう。↓
こちらも参考記事↓
[大東亜戦争とは? 其の1]
- ※参考文献
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- 「中川八洋著 近衛文麿の戦争責任」
- 「三田村武夫著 大東亜戦争とスターリンの謀略」
- 「中川八洋著 山本五十六の大罪」
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