先に日独伊三国同盟について少しだけ触れておく。
日独伊三国同盟とは。
日独伊三国同盟が「反英米」なのは明白だが、問題は、それが「反英米 + 親ソ」なのか、「反英米 + 反ソ」なのか、はっきりしない事にあった。
1939年の日独伊三国同盟は、「反英 + 反ソ」。
1940年、「反英米 + 親ソ」に大転換。
※独ソ不可侵条約締結(1939年8月)の為。
1941年6月、「反英米 + 反ソ」に回帰。
※ドイツがソ連に侵攻することによって、独ソ不可侵条約終焉。
当初帝國陸軍は、北進主義(ソ連と対峙)であった。この北進を抹殺したのが、米内光政、近衛文麿、そして南進に熱を上げた海軍である。
東条英機は、近衛が敷いたレールを唯走ったに過ぎない。
さて、戦後教育の多くは、満州事変に始まる「十五年戦争」と教へてゐる。
満州事変は、1931年9月18日に始まった。もし1945年8月15日の昭和天皇の停戦の詔までを云ふならば、14年足らずであり、十五年戦争といふ名前自体おかしい。
満州事変と1932年の満州国の建国については、やり方、タイミング、後処理等に対して、批判や非難が可能である。
然し満州事変は、明治維新(あるいは幕末)から一貫するロシア南下に対する防衛戦であり、戦略的な必然性があった。
満州事変と満州国の建国は、アジアの平和に無限の貢献をするものである。
然し1937年7月の支那事変以降の「八年戦争」は、アジアの共産化とロシアの侵略を促すものでアジアの平和にとって弊害以外の何物でもなかった。
即ち大東亜戦争とは、「八年戦争」の事を指す。(1941年12月12日閣議決定)。
但し、、、
ロシアのみ満州事変からの14年間が続いてゐる。
満州事変によって、初めてロシアは、日本の軍事力と陸上で自分の国境において接する事になった。
だから共産ロシアは、シベリア鉄道の傍まで進出してきた日本の軍事力を太平洋に叩き落すべく、対日戦争(非軍事の謀略含む)を1931年に全面的に開始した。そして1945年に満州、樺太、千島を占領した時、これに成功した。これこそ正に「十五年戦争」であった。
「八年戦争」とは、1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋における、死者ゼロ負傷者ゼロの小さな武力衝突事件が自然発火するやうに大戦争にエスカレートしたものだった。
さて、戦後の教育は、1930年代から1945年までを「軍国主義」だとか、「ファシズム」だとか、「日本は不法な侵略戦争をしたので謝罪しろ」 だの、とにかく日本を非難してきた。
これらは、「八年戦争」の真実を隠す為のプロパガンダ(嘘宣伝)に外ならない。
先に云へば、当時世界中で「共産主義」が一世風靡し、日本でも大正末期から昭和初期にかけて、例へば本屋でもマルクス本が飛ぶ鳥のごとく売れたのである。
國體違反であるので、取り締まっても尚もまた本屋に並び、完売だったらしい。
大正末期から昭和初期にかけて、我が國の体制は、ファシズムではなく、共産主義体制になっていった。大政翼賛会は、ソ連共産党がモデルである(第二次近衛文麿内閣)。
大政翼賛会は、大日本帝國憲法に違反である。
「八年戦争」の真相を知るには、二つ。
第一は、この「八年戦争」の國家の最高意思の決定における唯一の総理大臣である近衛文麿を研究する事、第二は、この「八年戦争」について敗戦前に体系的に論じたかなりの文書を遺した共産ロシアの工作員・尾崎秀実(朝日新聞社出身)を研究する事である。
尾崎秀実とは、近衛文麿のブレーンであるとともに、共産ロシアの「ゾルゲ機関」の最高メンバーとしてその主任務たる諜報でも十分以上の働きをする他、支那事変の拡大(講和阻止)、関東軍の対露開戦(シベリア進出)阻止、日本軍の南進(アジアから英米を追放)誘導…「八年戦争」の全てではないが、その多くをデザインした日本随一の「戦争脚本家」であった。また、天才的な煽動家でもあった。世界史上まれな大スパイであった。
※コミンテルンのスパイが対英米戦争を決断したその理由、つまり戦争目的は、次の三つであつた。
一、英米との戦争によつて日本がソ連に開戦する選択肢を完全に潰し、「共産主義の祖国」ソ連を防衛する事。
二、「自由主義の国」英米をアジアから追放する事。
三、日本を敗戦に追ひやり、(1917年のロシア革命と同様に)日本に共産革命の土壌をつくる事。
- ※参考文献
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- 「中川八洋著 近衛文麿の戦争責任」
- 「三田村武夫著 大東亜戦争とスターリンの謀略」
- 「中川八洋著 山本五十六の大罪」
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