大東亜戦争とは? 其の3 [スターリンと米内光政海軍大臣]

盧溝橋事件から1ヶ月の1937年8月、陸軍は、参謀本部次長の多田駿(中将)や同作戦部長の石原莞爾(少将)ら、不拡大派がまだ主流であった。
この為、日支事変は北支に限定されてゐた。そこでスターリンとしては、支那の國民党政府と日本とを全面戦争に導く為、罠を仕掛けた。
それが第二次上海事変である。
具体的にはスターリンは、国民党軍に潜入させてゐたコムニストで毛沢東軍に本籍を置く張治中(京滬警備司令官)に命じ、上海に駐留してゐた日本の海軍陸戦隊の大山勇夫中尉とその運転手(一等水兵斎藤與藏)の二名を射殺させた。8/9であった。続いて8/14日、日本の第三艦隊旗艦「出雲」 ばかりか、海軍陸戦隊本部や日本人小学校を爆撃させた。
スターリン/毛沢東の仕組んだ謀略に対し、米内光政海軍大臣は、蒋介石の意図を確認確定する情報作業をせず、翌8/10の閣議で、米内大臣は、上海への陸軍出兵を強引に要請した。現実に、杉山陸軍大臣は、この要請に消極的な反応しか示さなかった。
しかし米内は、8/12、近衛の支援を受けて、近衛私邸での四相会議(首相、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣)で、陸軍出兵を再び強く要請し、ここに二ヶ師団出兵が定まった。
さらに8/14の閣議で、米内大臣は、「南京占領」を口にした。これが閣僚で最初の「南京占領」発言である。この時、外務大臣も陸軍大臣も、これに反対した。
さて、1937年8月から開始された第二次上海事変により、日本軍の損耗は、たった三ヶ月で、戦死傷者が(死者9千人以上を含む)四万人を超えた。
それ以上に蒋介石国民党軍も支那での情勢が一変し、毛沢東の人民解放軍と国共合作せざるを得ない状況に追ひ込まれた。
まづ、共産主義者300余名(陳独秀ほか)が釈放された。次に、毛沢東人民解放軍は、形式的には、国民党軍の一部となり、「八路軍」と称し、正規軍となった。かくして、毛沢東の共産軍は好き放題にその勢力を伸長していった。
近衛文麿と米内光政の、1937年7月から1938年1月にかけての対支軍事、外交政策のすべては、スターリンの意に沿ふ形で、毛沢東の”赤い支那づくり”に決定的に貢献した。しかも、両名が、「毛沢東の為に」を密かに意識してゐたのは、間違ひなからう。
米内は生涯、ソ連と通謀し続けてゐたのでないか、といふ仮説は論証する価値はある。
尚、加藤寛治や米内光政は、近衛文麿や瀬島龍三や高木惣吉とは異なって、コムニストではない。

※補足

・米内光政は、ロシア語が堪能であった。山本五十六は、反米派で艦隊派。

・海軍は、日独伊三國同盟が、「反英米 + 反ソ」に回帰(ドイツがソ連に侵攻することによって、独ソ不可侵条約終焉)したのも知らずに、日ソ中立条約を永遠に信頼出来ると護守して、ひたすらに「南進」に熱をあげ、ソ連のアジア共産化に全面協力した。

レーニンの敗戦革命論

尾崎秀実の手記を読めば、第二次世界大戦の真相が見えてくる

大東亜戦争とは何だったのか

※コミンテルンのスパイが対英米戦争を決断したその理由、つまり戦争目的は、次の三つであつた。
一、英米との戦争によつて日本がソ連に開戦する選択肢を完全に潰し、「共産主義の祖国」ソ連を防衛する事。
二、「自由主義の国」英米をアジアから追放する事。
三、日本を敗戦に追ひやり、(1917年のロシア革命と同様に)日本に共産革命の土壌をつくる事。

※参考文献
  • 「中川八洋著 近衛文麿の戦争責任」
  • 「三田村武夫著 大東亜戦争とスターリンの謀略」
  • 「中川八洋著 山本五十六の大罪」

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