マッカーサー総司令部の方針転換 ~極東委員会と対日理事会の設置~

 1945年12月6日付で、ラウエル陸軍少佐は、「レポート・日本の憲法についての準備的研究と提案」を記してゐる。このラウエル・レポートは、権利規定以外の点については松本乙案と同種の立場に立ってゐた。國體についても、天皇の「統治権ノ総攬」を前提にして論を立ててゐる。

 ところが、憲法改正問題をめぐる国際情勢は大きく変化する。12月27日には「極東委員会および連合國対日理事会付託条項」が発表され、新たに、極東委員会と対日理事会が置かれることになった。極東委員会は、ワシントンに設置され、米英ソ支の4ヵ國、さらにフランス、オランダ、カナダ、インド、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドの11ヵ國代表で構成され、日本を管理する政策、原則、基準を決定する最高の権限を保持する事になった。また、対日理事会は、東京に置かれ、米英ソ支の4ヵ國代表からなり、連合國軍最高司令官の諮問にこたへる等の機関として設置される事になった。
 その結果、米國とGHQも、極東委員会に参加する英ソ支をはじめとする10ヵ國の意向を無視出来ない情勢となりつつあった。
 1946年1月17日、極東委員会のメンバーは訪日し、占領行政の中枢部として、日本政治の「民主化」政策を遂行した民政局の新局長ホイットニーや次長ケーディス等と憲法改正問題について話し合ってゐる。そして2月26日には、第1回極東委員会が愈々ワシントンで開催される事となった。また、ソ連やオーストラリアを中心にして、連合國全体の世論は天皇制廃止にかたむいてゐた。
 このやうな情勢変化に伴ひ、1月7日、GHQを指揮する立場にあるSWNCC(國務省、陸軍省、海軍省調整委員会)は、「日本の統治体制の改革」(SWNCC-二二八文書)といふ文書を採択する。この文書は、11日にはGHQに送付されてゐるが、ラウエル・レポートと同じ天皇制存置の道を1つの道として示し、もう1つの道として天皇制廃止の道も考へ出してゐる。
 そこで、マッカーサー総司令部は、天皇制廃止にかたむいてゐた連合國全体の世論に配慮して方針を転換し、國體を変更しない松本乙案的な憲法改正構想を捨て去る事にする。この方針転換は、マッカーサー総司令部にとっては、天皇制を維持する為にも、憲法問題におけるヘゲモニーを維持しておく為にも、必要な事であると意識された。
 ちょうど、このやうな政治状況の時、2月1日の『毎日新聞』は、政府の憲法問題調査委員会の「一試案」についてスクープする。「一試案」は、松本乙案と同様の内容であった。
 この「一試案」を、ホイットニー民政局長が批判した事で、GHQが、初めて「統治権の総攬」と対決しようといふ姿勢を打ち出したのだが、次回は、この辺りの経緯とその根底にある思想を再度熟考していく。

※参考文献
  • 「小山常実著 日本国憲法無効論」
  • 「田中英道著 戦後日本を狂はせたOSS「日本計画」―二段階革命理論と憲法」
  • 小山常実著 日本国憲法無効論
  • 田中英道著 戦後日本を狂はせたOSS「日本計画」―二段階革命理論と憲法

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