「理、性、命」と荻生徂徠の『弁名』 ~ 伊藤仁斎と荻生徂徠 その三 ~

以前の投稿で、伊藤仁斎による「命」字の語法について説明した。

伊藤仁斎の「命」字の語法 ~ 伊藤仁斎と荻生徂徠 その二 ~

朱子学(性理学)に於ける「命」について、今一度おさらいしておかう。

『命の一字二義あり理を以て言ふものあり、気を以て言ふものあり。天に在てはこれを命と謂ふ、人に在てはこれを性と謂ふ』
(陳淳著 性理字義)

性理学(朱子学)では、「天の命、これを性と謂ふ」「五十にして天命を知る」「理を窮め、性を尽し、命に至る」、これらの命の字は皆、理を指す。人の存立根拠をなす天との関係性を「天」の側から言へば、「命」、「人」の側から言へば、「性」となる。仁斎は、この「命」の語の用法を批判した。

ここで、性即理について触れておかう。ここでは、朱子学、陽明学を精しく説明するのは控へるが、分かりやすい頁があったので、図壱に表示しておく。

性即理

(図壱: 小島毅著 朱子学と陽明学 九〇頁)

「命」の字義から始まる『性理字義』は、まづ天道の流行として萬物それぞれがそのものとして成立することを「命」として捉へる。「天命」とは、天との必然的な関係に於ける萬物の成立に関はる概念である。天との関係に於ける萬物の成立は、形質的な成立と、天との関係性を己の存立根拠とした成立とに分けられる。気の命とは、前者の「形質的な成立」に関はる事であり、理の命とは、後者の「天との関係性を己の存立根拠とした成立」に関はる事である。

性理学(朱子学)では、『天命之謂性』「天の命、これを性と謂ふ」は、人の存立根拠を天の側からは「命」と言ひ、人の側からは、「性」と言ふ。しかし仁斎が、『天命之謂性』の「命」の体言化を批判し、用言的用法だと言った事は、既に以前の投稿記事で述べた如くである。また、普段我々の訴へる「理性を排して國體に従へ」の「理性」も、上の図壱から理解し得るのである。

さて、仁斎に於ける、朱子学(性理学)的な学を超える外部的視点を、『論語』に於ける孔子の発語の場に捉へながらした古義学的な「字義」解明の作業が、荻生徂徠に於いて『六経』といふ儒家言説史を超えるさらなる外部を設定させるといふ思想史の展開を経た。徂徠が『弁名』でした作業とは、仁斎古義学をも儒家的言説内に留まるものと批判しながら、儒家的言説の展開を遥かに超越する視点を『六経』に捉へ、その視点を儒家言説史の外部に設定した名辞解明の作業である。

※参考文献
  • 「子安宣邦著 江戸思想史講義」
  • 「小島毅著 朱子学と陽明学」
  • 子安宣邦著 江戸思想史講義
  • 小島毅著 朱子学と陽明学

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