昨今、あいつは偽装右翼、等と左翼を暴かうとの如く動きも見得る。「偽装右翼」をそのまゝ解せば、「革命を計画する左翼が、右翼を偽装する」となる。方や、「転向右翼」と表現せる事もある。しかし「転向右翼」をそのまゝ解せば、「革命を計画する左翼が、あるきっかけを期に、右翼に転ずる」となる。両者は、一見似通ってをり、現代でも同じであるかの如く使用せる事も見受けられる。しかしこの両者たる「偽装」と「転向」とは、前者は、左翼自らが右翼の仮面を被るのに対し、後者は、客観的である。後者は、右翼に転じた事を、左翼本人が自覚してゐるかは不透明であり、学術論的に、彼らは右翼に転じたと解したに過ぎないからである。前者の偽装とは、何某右翼に偽装する必要があるがゆゑに自ずからなるのに比し、後者の転向は、必ずしも自ずから右翼に転じたとは限らない。
我が國に於ける戦前戦中の左翼は、彼ら左翼の本意である「天皇制打倒」を隠す為に、右翼の仮面を被った。いや、被らざるを得なかったのである。この点からこの動きは、「偽装右翼」と云へる。これに比して、戦後、戦争に引きづりこむ勢力を偽装右翼と称されるが、これは所謂、反戦平和を掲げる勢力を左翼と認定する事からくるものである。しかし、戦争に引きづりこむ勢力を右翼と見る事は、客観的であり、左翼自らが「偽装」したかは定かでなく、学者や思想家の立場から、「転向右翼」と学術論的に判断されたに過ぎない。以前、第6回コミンテルン大会に於けるボルシェビキのレーニンの演説を引用したことがある。
二・二六を考察する
『
第6回コミンテルン大会のレーニンの演説を引用する。
「帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること
共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない」
レーニンの「敗戦革命論」に刺激されて、軍隊を「内部から崩壊せしめる」為に入隊した隊員が少なからず存在し、その中で兵を統率する立場になった者が相当存在してゐた事は確実だ。
』
レーニンは社会主義革命家であり、ボルシェビキとは、ロシア社会民主労働党から分裂された左派である。葦津珍彦氏は、レーニンについてかう述べてゐる。『幸徳、堺の「平民新聞」は、レーニンの名に言及してゐない。彼らはレーニンとは敵対的なメンシェヴィキの機関誌だった新「イスクラ」と連絡した。新「イスクラ」の戦争論は、「平民新聞」のそれと一致してゐる。それは、「平民新聞」と同じく非戦論であり、一般平和論であったし、開戦後においては「早期和平論」となっていく。これに対して、レーニンは鋭く対立し、新「イスクラ」に対して、痛烈な罵倒を浴びせかけた。』(葦津珍彦著 武士道)
ゲードやレーニンは、日本ブルジョアジーを支持したが、ロシアの社会主義者は、日本の労働階級を支持し、戦争を速かに終結させる事を要求した。これは、新「イスクラ」即ちメンシェヴィキの理論であるとともに、新「イスクラ」と連絡した「平民新聞」の理論とも通ずる。
またF・A・ハイエクは非常に興味深い見解を著してゐる。
『最近二、三十年にわたりドイツの支配者達を誘導してきた教義は、マルクシズムに含まれてゐる社会主義には決して反対してゐなかった。その教義は、実はマルクシズムに含まれてゐる自由主義的な要素、即ち、その国際主義や民主主義に対して反対してゐたのである。そして社会主義の実現を妨げる要因は、マルクシズムが含んでゐるこれら後者の諸要素であることが、ますます明白になっていったのにつれて、左派の社会主義者達は一層右派の社会主義者へと近づいていくことになった。即ち、ドイツから自由主義的な要素を全て駆逐してしまったのは、右翼と左翼との両陣営における反資本主義勢力の結合であり、急進主義的な社会主義と保守主義的な社会主義との融合だったのである。』(F・A・ハイエク 隷属への道 *西山千明訳)
『最近二、三十年にわたりドイツの支配者達を誘導してきた』とは、当時、つまりワイマール~ナチス体制の事である。フィヒテやロートベルトゥスやラサールといった國家社会主義の最も重要な知的先祖達が、同時に純正な社会主義にとっての定評ある知的先祖でもあったといふ事は、意味深い。
さてレーニンは、新「イスクラ」の非戦論に対し鋭く対立し、痛烈な罵倒を浴びせかけた。彼は、「平民新聞」に反して「旅順陥落」の意義を、日本の勝利を決定的に重大な世界史的意味を有するものと判断した。これは、ロシアのツァーリズム、反動的ヨーロッパと対決する限りにおいて進歩的アジア、日本ブルジョアジーを支持したのである。彼は、ヨーロッパとアジアの対決を重視した。だが日本がロシアに勝ち、朝鮮を併合し、軈て欧州列強とともに世界大戦に参加する頃になると、日本をヨーロッパ列強と同質の帝國主義列強の一つとして明確に敵視した。彼にしてみれば、革命的弁証法の当然の発展であった。少なくとも明治三十年代の時点においては、レーニンの立場は、幸徳よりも遥かに内田良平に近い。
明治卅四年、幸徳秋水は非戦論の立場で、有名な「帝國主義」論を出版して社会の注目をひいた。これと同じ年に黒龍会の内田良平の「露西亜論」が出て、これは最も強烈な主戦論を強調した。葦津珍彦氏は、『右翼と左翼の源流をたずねる者は、明治卅四年版の内田良平「露西亜論」と幸徳秋水「帝國主義」を読むがいい』と云ふ。内田と幸徳のこの二つの書は、当時の世論の両極を端的に示すものであり、日本の左右両極思想の対決を見る意味深い文献である。内田は頭山満門下であり、幸徳は中江兆民門下といっていい。しかし頭山と中江の世代にまで遡れば、そこには明白な対決点を見出し難い。頭山と中江とでは意志あひ通じ一致するところはあっても、明白な対決を見出す事は寧ろ無理である。ところが、内田と幸徳の論には、明白に両極の思想としての鋭い対決が表明されてゐる。それゆゑにこの両著の対照は、特に注目に値するわけである。
内田は、当時既に朝鮮問題で勇名を上げ、革命の孫文等とも行動を共にして奔走してゐたが、義和田事件の直後からロシア問題への関心を強めた。行動力を特徴とする内田は、建設中のシベリア鉄道を自ら実地探査する為にウラジオストックからペトログラードまでの間を、徒歩旅行で往復した。帰京して明治卅三年に黒龍会を創立した。ときに、廿七、八歳の青年志士であった。その「露西亜論」は、当時の対露強硬派ばかりでなく、広くジャーナリズムにもショックを与へた。
先に、内田は頭山満門下、幸徳は中江兆民門下、と示したが、右翼と左翼の源流を辿りたい。「右翼と左翼の源流」は、次の投稿記事に譲る。
- ※参考文献
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- 「葦津珍彦著 武士道 ~戦闘者の精神~」
- 「F・A・ハイエク著 隷属への道(The Road to Serfdom 1944年)」
- 「三田村武夫著 大東亜戦争とスターリンの謀略」
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