以前真田一族に於ける所謂「犬伏の別れ」についての記事を投稿した。
石田三成や大谷吉継らが徳川家康を討つ為に大阪にて蜂起した。
西軍の石田三成に味方するか、このまま東軍として徳川家康に協力するか?
真田信之を犬伏に呼び寄せ、真田昌幸・真田幸村ら親子三人は協議した。
長い激論の末、真田昌幸・真田幸村は石田三成に協力することを決め、真田信之は徳川家康にと、それぞれ袂を分かち離別した。
その話し合ひをした場所が、佐野の郊外にある犬伏と言ふ地であることから「犬伏の別れ」と呼ばれてゐる。
これが、「犬伏の別れ」である。
真田家を存続させ守る為に東西に分かれたと云はれてゐるが、「婚姻関係」についても考察してみる。
石田三成と真田昌幸の関係はどうであったか?
真田昌幸の正室・山手殿(寒松院)の出自については、諸説ある。
現在(2016年)放送中の大河ドラマ「真田丸」では、正親町実彦の姪、公家ゆかりの女性のどちらかを採用してゐるやうに思へる。
「滋野世記」の一説に見られ、正親町実彦の姪で菊亭家の養女となってゐる。正親町家は、清華家・菊亭家・三条家より家格の低い羽林家で、両家と同じ閑院流。
公家ゆかりの女性に於いては、1578年~1579年(天正6年~7年)頃成立の真田氏の検地帳の写本(「真田氏給人知行地検地帳」「小県郡御図帳」)で山手殿を「京之御前様」を明記してゐる。
真田氏関係の編著では公家の清華家・菊亭(今出川)晴季の娘とされてゐる。菊亭晴季は従一位・右大臣にまでなってゐる。
「真田太平記(1985年放送)」では、この説を採用してゐる。
しかし、主君・武田信玄の正室・三条殿の実家・三条家と菊亭家は同格。武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)が武田家の下級武士だけに可能性はかなり低いと云はれてゐる。
※1985年。俺、5歳だな。現在放送中の「真田丸」で真田昌幸を演じた草刈正雄は、当時1985年放送の「真田太平記」で、真田幸村を演じてゐる。昌幸役は丹波哲郎。
真田昌幸の正室は山手殿(寒松院)、石田三成の正室は皎月院(こうげついん)である。
皎月院は宇多頼忠の娘である。
山手殿(寒松院)は、「宇多頼忠の娘」といふ説がある。「石田氏系図」「尾張藩石河系図」に宇多頼忠の娘と明記されてゐる。
菊亭氏説としてゐるのは、徳川幕府体制下で悪人・三成と縁戚であることを隠したかったからとの主張もある。
真田信之の正室・小松姫(小松殿、稲姫)は、徳川家康の重臣・本多平八郎忠勝の娘で、養父は家康である。
真田幸村の正室・竹林姫(竹林院)は、大谷刑部少輔吉継の娘である。
昌幸・幸村父子は西軍、信之は東軍に味方してゐる。
幸村の正室が大谷刑部の娘、信之の正室が本多平八郎の娘であり、どちらが勝っても真田家は残るから父子で別れたと云はれてゐる。
真田父子がどのやうな理由で東軍・西軍に別れたかはわからないが、昌幸の正室・山手殿(寒松院)が宇多頼忠の娘なら、昌幸の正室と三成の正室は「姉妹」と云ふ事になり、袂を分けた事情に「婚姻関係」も加はってくる。
さて、現在放送中の大河ドラマ「真田丸」は、愈々佳境に入る。大阪夏の陣だ。
冬の陣では、真田幸村が築いた出城「真田丸」で、家康軍は散々にやられた。
しかし家康軍は、策略を以て、大阪城の外堀を埋め、裸城にしてしまった。
大阪夏の陣。
真田幸村の人気の理由は、何と言っても徳川家康に切腹を覚悟させた事であらう。
徳川軍は、豊臣軍の毛利勝永、木村重成の攻撃によって壊滅的な打撃を受ける。この時真田幸村は松平忠直の部隊と交戦してゐたが、互ひに過ぎ去り、忠直は大坂城に、入れ違ひに幸村は徳川本陣に現れる。
幸村は徳川軍に対し3度に渡って突撃。この時家康は、切腹を覚悟した。しかし、周囲の家臣が早まってはならぬと必死で家康を引き留め、本陣から撤退させた。
ちなみに幸村が家康を狙撃する為に所有してゐたとされる小型の銃『宿許筒(しゅくしゃづつ)』は、当時最新鋭の技術を用ゐた連射式の銃だったさうだ。
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