吉田松陰が説く女子の教戒 ~武教全書講録 子孫教戒~
『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置まし大和魂』 吉田松陰が、処刑二日前の10月25日に書き始め、翌日26日夕刻までに江戸・小伝馬町牢屋敷の中で書き上げられた「留魂録」の巻頭に綴られてる弟子宛の辞世の句である。松 […]
『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置まし大和魂』 吉田松陰が、処刑二日前の10月25日に書き始め、翌日26日夕刻までに江戸・小伝馬町牢屋敷の中で書き上げられた「留魂録」の巻頭に綴られてる弟子宛の辞世の句である。松 […]
本居宣長の学徒たる平田篤胤は、死後豫美に行く事に異を唱へた。 『幽冥を以て、天堂と対立する地獄の意と解する事は、宣長の学徒たる平田篤胤の、為さなかった所であるとともに、それを宣長の如く豫美と同一視する事も、為し得なかっ […]
今こそ、大和魂を勃興させなければならない。内憂外患たる国難を突破せしむるべくには大和魂を奮ひ立たせよ!等と私もよく主張する。然らば抑も魂とは何なのか?即ち「復古神道に於ける幽冥感」を日本思想の面から少しばかり辿りたい。 […]
佐久間象山は、信濃の松代藩士・佐久間一学の長男として、1811年2月28日に信濃で生まれた。 1828年、象山は佐久間家の家督を継いだ時の、松代藩主は真田幸貫である。幸貫は、真田信之から数へて八代目にあたる。 幸貫は、象 […]
以前真田一族に於ける所謂「犬伏の別れ」についての記事を投稿した。 戦國乱世の武士道 ~後藤又兵衛基次と真田一族~ 石田三成や大谷吉継らが徳川家康を討つ為に大阪にて蜂起した。 西軍の石田三成に味方するか、このまま東軍として […]
十一月三日 奉祝 明治節。 明治天皇の御生誕日。明治天皇の御遺徳を偲び、謹みます。 文化の日とは、占領統治憲法公布を、祝ふ日である。十一月三日を文化の日と思ってる者はGHQ万歳とでも言っておけ。 日本男児、大和撫子は、静 […]
行政が度を超えた腰抜けならば、軍自らが動くより他は無い。 戊辰戦争時、薩長両軍は錦の御旗を掲げ、官軍である事を示し、大政奉還へと至らしめ、軅日本軍と組織された。錦の御旗を掲げるとは、皇紀二六七六年、歴史伝統の重圧を背負ふ […]
昭和維新運動の活動家達は、明治維新の志士達を非常に尊敬し、追慕した人々が多かった。けれども、彼らの先人達への憧憬の情は強烈だったにしても、その教訓を十分にくみとったとは言ひがたい。 血盟団、五・一五等の諸事件は、桜田門の […]
高杉の行動を裏づける心情において「毛利家恩古の臣」「高杉家の嫡子」として「忠孝」の意識が根強かった。 明治維新にさきだって、すでにはやくから、封建的藩閥意識を否定した人々は少なくなかった。幕末時代の洋学者達は決して少なく […]
二・二六以降を、大日本帝國憲法に欠陥があった(内閣の規定がない等)為だとする論調には、賛同しかねる。 さうではなく、大日本帝國憲法を破壊しようとした特定思想を持つ者達が戦争を利用する為に我が國を戦争にひきづり込んだのであ […]