(※実のところ、以下の記事は中川八洋氏の史観を其の儘、転載しただけのものなので、多少なり偏ってる部分もあり、注意が必要ですが、一資料として考察する余地はあると思ふ。)↓
日本では、近衛文麿総理のさらなる強行によって、九月六日に御前会議が開かれ、「・・・・対米(英蘭)開戦を決定す」(帝國國策遂行要領)が決定された。二ヵ月前の七月二日の「開戦を辞せず」の表現が、「十月上旬に至るも・・・・開戦を決定す」と変更されて対米開戦の日本の決意はますます過激にますます強硬になった。
英米との戦争開始が遂に期限つきで明記された。
親英米派で自由主義者の昭和天皇はこのとき、これへの絶対反対の御意思を表明すべく、明治天皇の御製「四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風の立ち騒ぐらむ」を二度も読まれたのであった。この「対米(英蘭)開戦を決定す」を再考するやう間接的に促されたのである。然し近衛首相は、この昭和天皇の御意思(御心)を一顧だにすることなく、むしろそれを侮辱して冷然と無視した。
そればかりか、七月二日の要綱にあった「対ソ連においては・・・・」の項をまったく消してゐた。
九月六日の御前会議を開いた近衛文麿の真の狙いは、日本がドイツに従って日独伊三国同盟条約を履行してソ連(共産ロシア)を攻める「北進」の選択の可能性を、國策から完全に抹殺することであった。
またシベリア侵攻ができる翌1942年の春がくる前に日本を米英と戦争させることによって、日本の「北進」をまったく不可能にすることであった。
後継の総理となった東條英機が、対英米蘭戦争の開始を、九月の「要領」の「十月上旬」から二ヵ月だけずらして、十二月初旬と定め直しただけの、新「帝國國策遂行要領」を御前会議に持ち込んだのは、十一月五日であった。
海軍は機動部隊を、十一月二十二日までに千島列島の択捉島の単冠湾に集結させた。が、これはこの新「要領」に従ったのである。
そしてまた、新「要領」に従って、十一月二十六日(日本時間)午前六時、空母六隻を含む三十二隻の南雲中将麾下の機動部隊は、航空機三百五十機を載せて真珠湾を目指して出撃していった。
「ハル・ノート」が国務長官コーデル・ハルから野村・来栖の二人の大使に手渡されたのは十一月二十六日午後五時(日本時間二十七日午前七時)なので、真珠湾攻撃の機動部隊の出撃の方が約一日分の二十五時間程早い。日本の真珠湾攻撃は、「ハル・ノート」に激情的に反発してのものではない。「ハル・ノート」の内容のいかんに関はらず、対米開戦の日本の決意と決定は、七月末の「南進」を敢行して以来、わずかも迷ふ事のない既定路線であった。
だからといって、「ハル・ノート」の内容の重大性がまったく無い訳では無い。
日本側に手渡されたこの「ハル・ノート」とは、対日穏健派のコーデル・ハル国務長官のまとめた「ハル試案」(暫定協定案)ではなく、ソ連のスパイで共産主義者のハリー・デクスター・ホワイトが執筆した強行姿勢一本槍の「ホワイト試案」の方であった。
財務次官補ハリー・デクスター・ホワイトが執筆した「ホワイト試案」は、十一月十七日、ホワイトを深く信頼する財務長官モーゲンソー(反ドイツの旗頭)に手渡され、翌十八日、モーゲンソーは、この「ホワイト試案」をルーズヴェルト大統領とハル国務長官に送付した。
ルーズヴェルト大統領はこれを直ちに読んで気に入り、二十五日、ルーズヴェルト大統領はハルに対して、「ハル試案」を断念せよ、「ホワイト試案」を採択せよ、と厳命した。
※コミンテルンのスパイが対英米戦争を決断したその理由、つまり戦争目的は、次の三つであつた。
一、英米との戦争によつて日本がソ連に開戦する選択肢を完全に潰し、「共産主義の祖国」ソ連を防衛する事。
二、「自由主義の国」英米をアジアから追放する事。
三、日本を敗戦に追ひやり、(1917年のロシア革命と同様に)日本に共産革命の土壌をつくる事。
- ※参考文献
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- 「中川八洋著 近衛文麿の戦争責任」
- 「三田村武夫著 大東亜戦争とスターリンの謀略」
- 「中川八洋著 山本五十六の大罪」
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