日本は、近衛文麿首相(過激マルキスト)の強引なリーダーシップのもとに1941年7月2日に早々と「対英米戦を辞せず」(「情勢ノ推移ニ伴フ帝國國策要項」)を御前会議で決定してゐた。英米の衝突を不可避としてしまふ、「南進」そのものである南部仏印進駐(サイゴン入城等)をこの「要綱」に従って7/28に断行した。
この日本の「南進」は、実態的には日本からの米国や英国への最後通牒だから、それこそ「逆ハルノート」と呼ぶべき性格のものである。英米に対する実質的な宣戦布告であった。この南進の進駐がたまたま「侵略」とならず、合法かつ無血なものになったのは、ヒットラー・ドイツの占領下にあったその傀儡フランス(ヴィシイ)政府に対して、このドイツを通じて問答無用とばかりに強要して締結させた日仏共同防衛協定(7月21日)によるものだったからである。
日本の「南進」とは、英米蘭に対する戦争の、露骨で直接的な準備であった。だから日本と米英蘭との戦争の実質的な開戦日は、公式の宣戦布告の12月8日ではなく、サイゴン入城の7月28日とすべきであらう。
現実に、前述した7月21日の日仏協定の締結といふ、日本の対英米戦の準備に対抗して、米国は在米日本資産を凍結し、独立直前のフィリピン警察軍を米軍指揮下に編入した(7月25日)。
英国も在英日本資産の凍結をしたし(7月26日)、オランダもこれに続いた(7月27日)。
だから諸外国(世界の世論)は、このやうに7月21日以降に直ちに対抗する英米蘭との衝突を避けるべく、日本は暫く冷却期間を置く為に外交交渉に専念するだらうと見なした。
しかしあらうことか、この資産凍結の対抗措置に対してどこ吹く風と、日本は直ちに7月28日、逆に陸軍部隊をこの地に派手派手しく進駐させたのである。
つまり宣戦布告に等しいこの進駐という行動を以て、事実上の戦端を、日本こそが英米蘭に対して開いたのである。
よってついに、米国は日本への石油禁輸に踏み切った。伝家の宝刀を抜いたのである。8月1日であった。
日米戦争の初期段階(イニシャル・ステージ)は、ここに発生した。
※コミンテルンのスパイが対英米戦争を決断したその理由、つまり戦争目的は、次の三つであつた。
一、英米との戦争によつて日本がソ連に開戦する選択肢を完全に潰し、「共産主義の祖国」ソ連を防衛する事。
二、「自由主義の国」英米をアジアから追放する事。
三、日本を敗戦に追ひやり、(1917年のロシア革命と同様に)日本に共産革命の土壌をつくる事。
- ※参考文献
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- 「中川八洋著 近衛文麿の戦争責任」
- 「三田村武夫著 大東亜戦争とスターリンの謀略」
- 「中川八洋著 山本五十六の大罪」
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