蓮田善明譯 古事記 ~竹田恒泰譯と比較~ 皇紀2683年

 『現代語譯 古事記』の中で人気がある書籍の一つに、竹田恒泰氏の譯書がある。その中身は特に問題は感じない。国史を教へない戦後教育を通して、骨抜きにされた事なかれ日本人が、古事記に触れるきっかけになるなら、大いに評価できよう。
 しかし、國體保守を標榜するなら、これだけでは事足りぬ。あくまでノンポリの方々が、古事記の世界を知るきっかけにするといふ意味では決して悪くないといふ感想である。

 そこで、私自身が、古事記の中で最も愛読書としてゐるのが、蓮田善明氏の現代語譯であり、彼が31歳の時の作品だ。
蓮田善明氏について、上代文学専門の坂本勝氏は、かう述べてゐる。
『譯者の蓮田善明は激烈な国粋主義者として知られる。「蓮田善明全集」(島津書房)所収の年譜によると、蓮田は昭和廿年の敗戦を招集軍人としてマレー半島で迎へ、敗戦の責任を天皇に帰し日本精神の壊滅を説く上官を射殺し、自らも拳銃でこめかみを撃ち自決したといふ。その思想と行動が三島由紀夫に強い影響を与へた事もよく知られてゐる。たゞ本書(蓮田善明譯 古事記)については、本居宣長以来のやゝ過剰な敬語の補ひの他には、国粋主義者としての影は殆ど見られない。「古事記」原典に忠実であらうとした結果である。

 なお、蓮田譯が依拠した原文と訓読文は、主に本居宣長「古事記伝」に依ってゐる。』

 蓮田善明譯 古事記の初版刊行は、昭和九年である。そこで、折角なので、同じ場面の蓮田譯と竹田譯とを、順に記してみよう。
 ある二つの場面である。まづは、「倭建命」。

 蓮田善明譯
『さう言ひ終はるや否や、命は直ちにクマソタケルを、熟した瓜のやうに切り裂いてお殺しになった。その時から、御名を称へてヤマトタケルノ命と申し上げるのである。
かくて都に御帰還になる途中に、また長門の海峡の悪神を全て鎮定して、お上り遊ばされた。なお、出雲の国にもお入りになって、イヅモタケルを殺さうと思され、策をめぐらして友好をお結びになった。そして、ひそかに赤檮(いちいのき)で偽刀を作って御佩刀となされ、一緒に簸河に入ってからだをすすがれた。それから、さきに川から上がって、イヅモタケルが解いて置いた太刀を佩きになり、…』

 竹田恒泰譯
『熊曾建がさう言ひ変へると、すかさず、熟した瓜を刻むやうに、小碓命は熊曾建の体をずたずたに切り刻んで殺しました。この時から、御名を称へて倭建命と申し上げます。
 かうして途中、山の神、河の神、また海峡の神を、皆説得して、平らげながら大和の地にお帰りになりました。

 さて、倭建命は大和にお帰りになる途中、出雲建も殺さうと思し召し、出雲国にお入りになりました。すると倭建命は、すぐに出雲建と友達になります。
 倭建命は密かに樫の木で偽の太刀を作り、それを腰に佩いて、出雲建と共に斐伊川に沐浴にお出掛けになりました。
 倭建命は先に河からお上がりになると、出雲建が外した太刀を佩いて…』

そして、「雄略天皇」。

 蓮田善明譯
『オホハツセワカタケノ命は、長谷の朝倉の宮に座して、天下をお治め遊ばされた。
 この天皇は、オホクサカノ王の妹のワカクサカベノ王を娶されたが、御子なく、また、ツブラオホミの娘カラヒメを娶してお生みになった御子は、シラガノ命、妹ワカタラシヒメノ命のお二方である。』

 竹田恒泰譯
『大長谷若建命(大長谷王子)は即位あそばされ、長谷の朝倉宮に(奈良県桜井市脇本の脇本遺跡とする説が有力)において天下をお治めになりました。第廿一代雄略天皇です。
 天皇は大日下王(仁徳天皇の御子で、雄略天皇の叔父)の妹、若日下部王を娶りましたが、子はありませんでした。また、都夫良意富美の娘、韓比売を娶って生んだ御子は白髪命(後の第廿ニ代清寧天皇)、次に妹の若帯比売命。併せて二柱です。』

 あくまで私見に過ぎないが、竹田譯も、最高敬語を使用してゐる箇所がありながら、蓮田譯に比べると、若干その統一性がどうにも感じられず、腑に落ちない。
 上記にある通り、蓮田譯が依拠した原文と訓読文は、主に本居宣長「古事記伝」に依ってゐて、これが信頼に至ってるのかもしれない。

 しかしこれは、あくまで私自身の感覚に過ぎないのであって、蓮田氏が後書きで云ってるやうに、「古事記」を読む態度は、この書の後書きにある下記の部分に尽きるのではないか。

『最後に「古事記」を読む態度ですが、これはさう言ふ私みずから顔負けのすることでありますけれど、ぜひに、これだけは述べておきたいと思ひます。私はなんでもかでも古典でなければならない、古典を読めばちゃんと書いてある、やれ、これはわれ/\の聖書だ、などと理屈をつけて、「古事記」を読者にすすめる、さうした態度は採りたくありません。そんな気で読む人は、たいていもう実物を読む必要のない人でせう。それよりも、むしろ、物珍しい気持で書をひもどき、読み行くうちにほほゑましい親しみでも感じられたら、それだけで十分と思ひます。理屈は全くそれからの事であってよいのです。
 云々…なお、系譜の部分の、まるで片仮名の砂ぼこりみたいなものは困ったものですが、まあ、わけは分からなくても口に発音してみて、自らの口つきがうれしくなる事もあったら、取柄だとしておきませう。注意してご覧になると、実はあの中にも、後の事件をはらむ秘密がこっそりひそまされてゐたりします。不遜ながら、ひたすらご愛読を得たいと存じます。
昭和九年十一月三日』

 なるほど、まさに教育勅語、五箇条の御誓文などにも同じ事が言へるわけで、不文憲法の考へそのものと言へよう。

※参考文献
  • 「蓮田善明著 現代語譯古事記」
  • 「竹田恒泰著 現代語古事記」
  • 蓮田善明著 現代語譯古事記
  • 竹田恒泰著 現代語古事記

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