文永の役の推移 ~元寇における通説(神風史観)を見直す~ 皇紀2682年

 「文永の役では、蒙古軍は嵐の為に一夜で退却した。」と書いてゐる教科書が複数ある、と著者の服部氏は述べる。ところがさうした記述は、歴史書の中にはただの一点もない。どこにも書かれてゐないのである。
嵐の為に一夜で退却した、と記した書物はないが、一夜で姿を消したとする本はあった。『八幡愚童訓』である。
 中山平次郎氏は、「八幡愚童訓は実録にあらず」と強調した。しかし学会の多数はさう考へなかった。
 なぜなら当時の貴族の日記である『勘仲記』11月6日条「にわかに逆風が吹いて、凶賊が本国に帰った」とあった。また『高麗史』に「会夜大風雨」とあったからだ。
 それで一日で帰ったのはこの風の為だ、となってしまって、全く違ふ日、異なる時間帯の話が、同じ日、10月20日の夜の事だとして合体した。20日合戦の夜に、風が吹いて、だから一晩で帰っていったのだ、となってしまった。
 『勘仲記』によれば、20日の京都は晴れで、「朝霜太」(朝の霜、はなはだし)とある。放射冷却をもたらす安定した大きな高気圧があって、だから太陽暦11月下旬に霜が降った。かうした気圧配置であれば、その夜に嵐(寒冷前線)が通過する事はない。

 『勘仲記』のやうな、京都にゐた貴族の日記に、断片的ながらも、合戦の推移が記録されてゐる。はるか離れた場所での伝聞記事だから、蒙古退散がいつの事なのかを判断する為には、九州での出来事が、いつ京都に伝はったのかを考へなければならない。博多発の飛脚は、いつ京都に到着するのか。この『勘仲記』は広橋(勘解由小路)兼仲の日記で、記主が勘解由小路兼仲だから、家名と記主名から一字づつ取って、後にさう呼ばれた。別名『兼仲卿記』とも呼ばれる。兼仲は後には中納言に出世するが、文永11年当時はまだ正五位下、治部少輔だった。

 『勘仲記』10月22日条では「13日」の対馬合戦の様子が伝へられた。13日と日付が記されてゐるが、その日が対馬合戦そのものの日といふ事はあり得ない。対馬・太宰府間の連絡は、刀伊の時には、10日かかってゐる。13日は、事態を知った少弐資能の飛脚が博多を出発した日となる。すると、この時は博多から京都まで10日かかってゐる。即ち、対馬合戦は3日から5日にかけてだった。

 続いて10月29日条に「異国賊徒、責め来たりて興盛の由、風聞す」とある。これは九日前、20日の赤坂・鳥飼の激戦を指す。『蒙古襲来絵詞』に「去年10月20日」とある博多周辺の緒戦の事だ。この場合も兼仲は十日で情報を得た。
 次に、『勘仲記』以外の日記に『吉続記』逸文がある。10月27日条に20日の合戦を報じ、「九国隕滅可憐」(九州はもう破滅である、あはれなことだ)と記してゐる。続いて「関東(鎌倉幕府)の政道は緩怠(いいかげん)である。人々は様々に言ってゐるが、あまり口にすべきではない、秘すべし」と書いてゐる。
 この記事では八日目で伝はってゐるから二日程早い。『吉続記』の記主は吉田経長で、文永11年には右大弁であり、朝廷中枢たる太政官にゐたから、治部少輔であった兼仲より情報入手は早かった。

 続いて『勘仲記』11月6日条には、かうある。

 ある人が言ふには、逆風が吹いて、船は本国に帰った。残った船は大鞆式部大夫(大友頼泰)が捉へた。五十人以上である。いづれ京都に連れていく。逆風の事はまことに神さまのご加護である。

 これが京都(広橋兼仲)に伝はったのは11月6日の事である。(太陰太陽暦では小の月、29日までと、大の月、30日までがあった。この年の10月は大の月)。吉報だから兼仲にも早めに伝はったと考へられる。蒙古(高麗)が帰国したのは八日前として、29日頃の事になる。蒙古・高麗軍は20日の激戦後も、10日間近く日本に滞在し、作戦を継続してゐた。
 逆風は『高麗史』が言ふ大風雨に該当する。29日以前に吹いた。南の風だったやうだ。船が沈んだとは書かれてゐないが、座礁した敵船が一隻あって、五十余人が拿捕された。
 『関東評定伝』には

 文永11年10月5日、蒙古異賊寄来たりて、対馬島に著す、少弐入道覚恵代官藤馬允、討たれる、同廿四日、大宰府に寄来りて、官軍と合戦す、異賊は敗北す、

とある。この史料には24日に合戦があったと明記されてゐる。事実はこの24日、日本側は善戦し、大宰府まで攻め込んできた蒙古・高麗軍を退けた。不首尾となった蒙古・高麗は撤退を決めた。

 嵐について少々、次回以降に補足する。

※参考文献
  • 「服部英雄著 蒙古襲来と神風 ~中世の対外戦争の真実~」

Be the first to comment

Leave a comment

Your email address will not be published.


*