『井上毅先生』といふ49頁にまとめたこの著作は、熊本の偉人とは、で始まる。横井小楠、徳富蘇峰、北里柴三郎、この三人は、全国的にも有名な熊本の偉人であり、記念館も建てられてゐる。
しかし、肥後の偉人会顕彰会副会長の永田氏は、『その中でも私が熊本で一番の偉人と思ひますのは明治政府の官僚であり、後に文部大臣をお務めになった井上毅先生です。明治期において井上毅先生のご功績は多大であり、現代においてもそのご功績の一部は引き継がれてをります。にも関はらず井上毅先生のご功績どころかその名を知る人は少なく、銅像も記念館もありません。熊本市立必由館高校には井上毅先生誕生地碑といふ大きな記念碑が建てられてはゐますが、必由館高校で井上毅先生の事を特別に教へるといふ事はされてゐません。』と、熊本で一番の偉人として、井上毅を挙げ、その生ひ立ちから分かりやすくまとめて上梓した。
嘉永五年、八歳になった井上毅は、肥後熊本藩家老・米田是容が創設した私塾・必由堂に入塾した。(必由堂があった場所には現在熊本市立必由館高校があり、正門を入ってすぐの左側に「井上毅先生誕生地碑」と書かれた大きな記念碑が建立されてゐる)
井上毅は、それまでは自宅で勉強に励んでをったが、入学すると神童と呼ばれた才能をいかんなく発揮し、凄まじい速さで沢山の事を吸収して、「これは並みの子供ではない」と米田是容も驚いたさうだ。
明治五年九月、井上毅はフランス語を習得してゐた事で、司法卿・江藤新平の目に止まり、西欧使節団の随行員の一人に選ばれ、フランスに留学する事になった。
フランスで司法制度を学んだ井上毅は、他の随行員が帰国してもフランスに留まり、フランスだけでなくイギリスやドイツ、ベルギー等の西欧の司法制度を研究し、それに関する専門書を大量に買ひ込んで、翌六年九月に帰国した。
帰国後、司法省に戻り刑法・治罪法について更に調べるが、内政、外交と多忙を極めてゐた。しかし井上毅は、本業である刑法・司法の整備においても手を抜く事はなかった。
フランス留学での学習を元に「仏国大審院考」「治罪法備攷」「王国建国法」「仏国司法三職考」の所謂司法四部作をまとめ上げると、大久保利通に大審院の設置を含む司法改革意見を提出し、大久保利通亡き後は岩倉具視や伊藤博文の頭脳として様々な政策の立案をして、国家の重要政策に大きく関はる事となる。
当時井上毅の助手を務めてゐた小中村義象(池辺義象)は、井上毅の体調を心配し、また気分転換を兼ねて安房、房総、相模を巡る旅に連れ出した。
鹿野山登山中、井上毅はふと大国主神の国譲りの事を思ひ出し、小中村に「あれはどういふ事だったのだらうか」と尋ねた。
小中村が「ここには原文がございませんので正確には答へられません」と返すと、
「じゃあ今から東京に帰って調べよう」と旅を中断して東京へと戻ってしまった。
井上毅が大国主神の国譲りで注目したのは、建御雷神が大国主神に国譲りの交渉をしてゐる時の台詞である。
建御雷神は大国主神に問ふ。
「天照大御神は、あなたがうしはける葦原中国(日本)は本来我が御子が知らさむ国であると仰ってますが、あなたはどのやうにお考へですか?」と。
井上毅の遺稿「梧陰存稿」のうちに、特に「言霊」といふ一章を設けて、「シラス」と「ウシハク」との意味の差異について、縷々数百言を費やしてゐる。
「シラス」と「ウシハク」の違ひ、そして「明治14年の政変」で裏で画策したのが井上毅だったのだが、各々の詳説を、次回以降に投稿する。
- ※参考文献
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- 「肥後の偉人顕彰会編 井上毅先生」
- 「元侍従次長 木下道雄著 新編 宮中見聞録 ~昭和天皇にお仕へして~」
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