在野の激しい神道意識と政府の国家神道との対決 ~世俗合理主義たる国家神道~ 皇紀2682年

 井上毅、伊藤博文等の政府高官が政教分離の憲法論で神祇官制に断固反対しても、地方の神主は、決して引き下がらない理由があった。

 神道人の側からすれば、「明治維新は神道による祭政一致を皇国の大目標」としたはずである。それで神祇官が立てられたが、それが神祇省となった。神祇省が廃せられて、教部省となり、大教院が解消された明治七、八年の頃から、政府の政策は全く欧化主義者あるいは仏教(真宗)者の進言のみに動かされて、神道は一年又一年と後退を余儀なくされ、下降線の一途を辿って来たのが事実ではないかといふ事になる。ここで断固として猛反撥しなければ、維新の鴻業も滅び去るとして、神祇官興復の運動が全国に燃え広がっていくことになる。帝国憲法の発布に際して、全国の神社で奉告祭が行はれたからとて、これを以って国家神道が帝国憲法によって、確立したかのやうな論をするものがあるのは浅薄に過ぎる。
 しかし憲法奉告祭に奉仕した神主は、憲政の進行によって、日本帝国の隆盛発展には慶賀しても、神社が政府から敬遠、等閑視され、荒廃化して行くのを止め得ないのではないかとも憂へたのである。それが史的事実でもあった。

 明治33年社寺局を廃して、神社局を創設し、神社を「国家の宗祀」として、一般諸宗教の行政と区別した。
 神道人の側では、十有余年の神祇官興復がともかくも形の上だけでも一歩前進したものとして、大いに慶賀した。世の通俗的な国家神道史論からすれば、政府はここを国家精神高揚の拠点として、新設の神社局の行政に大いに力を入れていいはずであるが、歴史を実証的に見る限り、その後の政府は、殆ど何もしてゐない。時の政府としては、議会と神主の建議要望で、社寺局の神社課を局に格上げしたといふだけで、神道に対して格別の期待もしなかったと見ていい。

 内務省の神社局は、「神社神道は宗教に非ざる国家の宗祀とする」公権法解釈の上に立った。帝国憲法の一流法学者の中にも、美濃部達吉や筧克彦とかの博士は、神道を日本に特殊固有の宗教であって、憲法は他の宗教の自由を認めるけれども、神社を格別として、神道を国教としたのは不文憲法に基くものであるとの学説を主張した。しかし、帝国政府は、神社神道非宗教の公権解釈を、一時とも動揺させた事はなく固守し続けて変はらなかった。
 しかし「宗教に非ず」といっても、その精神的意味が、時により人によって、しばしば異なってきた。元々日本の文化用語の中に無かったレリジョンといふ、概念曖昧の外国語を宗教と譯して、神社と神道の性格づけをする時に、いつも「宗教か非宗教か」といふ事を中心として来た所に、「国家神道」の大きな迷路を生じた理由があったとも言へる。

 戦前において、帝国政府から最も苛烈な弾圧を蒙ってゐた時代の皇道大本教といふものは、黒龍会の内田良平と、最も深く心情的に結合した神道思想であった。世にいはゆる右翼ファッショの神道思想は、帝国政府の法令に基く神道、即ち内務省神社局の国家神道の思想的敵対者であったし、警察権力は、これを犯罪と断定した。この右翼流の神道思想と政府の国家神道との対決と、その対決と交錯とを無視しては政府の「国家神道が何であったか」は分からない。

 国家神道なるものは、明治以来の真摯なる神道人の志を前提源流として出発したものではあるが、有力な非神道の政治権力や非神道の宗教勢力からの強いブレーキとの交錯が重なって、それらの諸力に「中和」されて、その精神は、全く空白化してしまった無精神な、世俗合理主義で「無気力にして無能」なものであったといふのが歴史の真相に近い。
 世俗合理主義の行政官が、神社の精神指導の一切の権を握って、いはゆる非宗教主義を以って行政指導した為に、神官神職は一般的に、無気力無精神の風が著しくなり、在野の神道意識に燃える国民からは痛烈な批判を浴びせかけられるに至った。戦時下の日本国民の神国思想は、国家神道の神主の教説等は全く無視して燃え広がったものである。
 その真相が分からないで、外国人は、在野の激しい神国意識を「国家神道」であるかと誤認して、国家神道に猛攻を浴びせた。そしてそれに合唱する国家神道反対史論が多く書かれた。これに対して外圧の不法に反撥して、国家神道を弁護しようとして、それを荘厳に美化するやうな国家神道史像を描いた論文も現はれた。しかしそれは、いづれも虚像を弾圧攻撃しあるいは防衛したのではなかったのかとの感がある。

※参考文献
  • 「葦津珍彦著 阪本是丸註 国家神道とは何だったのか」
  • 葦津珍彦著 阪本是丸註 国家神道とは何だったのか

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