【武士道 第四章 勇・敢為堅忍 ~新渡戸稲造、そして山本常朝~ 皇紀2681年】

 新渡戸稲造著・英文『武士道』 矢内原忠雄譯、譯者序の一部である。

 私はキリストが教へ、かつ『新約聖書』の中に伝へられてゐる宗教、ならびに心に書(しる)されたる律法を信ずる。
 この著述の全体を通じて、私は自分の論証する諸点をばヨーロッパの歴史及び文学からの類例を引いて説明する事を試みた。それはこの問題をば外国の読者の理解に近づけるに役立つと信じたからである。

 一方、下記は奈良本辰也譯編による『葉隠』序文の一部である。

 この本の口述者である山本常朝は、42歳の身をもって妻ともどもに出家の姿となり、その彼が選んだ隠棲の地は、佐賀城下を隔たる事12キロあまり北の、金立山が背後に屹立し、あたりはいかにも幽邃の気が漂ふ黒土原の木立の中であった。
 この黒土原に常朝の教へを乞ふたのが田代陣基(つらもと)である。陣基は、かねてから人格を慕ってゐた常朝に日参する。雨の日も風の日も、陣基は常朝の庵を訪ねた。そして、その話を書き写していった。およそ、7年あまりの歳月が流れたとき、それは分厚い11巻の冊子となってゐた。
 その11巻の冊子が、今に伝はる『葉隠』である。『葉隠』といふ名前は、どういふわけで選ばれたのか明らかではない。

 両書籍は、いづれも『武士道』の古典的な位置づけとされてゐるが、対する評価は様々である。しかし其々の内容は、どれも日本人の本能を呼び覚ます必読の書と云へる。

 まあ個人的に、現状を原状回復せしむるべく、新渡戸稲造著『武士道』 矢内原忠雄譯を再読し、要点を再確認したいと思ってゐたもので、まづは、その中でも、『第四章 勇・敢為堅忍』を参照したい。

 勇気は義の為に行はれるのでなければ、徳の中に数へられるに殆ど値しない。孔子は『論語』において、その常用の論法に従ひ消極的に勇の定義を下して、『義を見てなさざるは勇なきなり』と説いた。この格言を積極的に言ひ直せば、『勇とは義しき(ただしき)事をなすことなり』である。武士道にありては、死に値せざる事の為に死するは、「犬死」と賤しめられた。プラトンは勇気を定義して、「恐るべきものと恐るべからざるものとを識別する事なり」と言ったが、プラトンの名を聞いた事さへなかった水戸の義公も、「戦場に駆け入りて討死するはいとやすき業(わざ)にていかなる無下の者にてもなしえらるべし。生くべき時は生き死すべき時にのみ死するを真の勇とはいふなり」と言ってゐる。西洋において道徳的勇気と肉体的勇気との間に立てられた区別は、我が国民の間にありても久しき前から認められてゐた。苟も武士の少年にして、「大勇」と「匹夫の勇」とについて聞かざりし者があらうか。

 ブルトゥスの死に際し、アントニウス及びオクタヴィウスの感じたる悲哀は、勇者の一般的経験である。上杉謙信は14年の間、武田信玄と戦ったが、信玄の死を聞くや「敵の中の最も善き者」の失せし事を慟哭した。謙信の信玄に対する態度には終始高貴なる模範が示された。信玄の国は海を距る(へだたる)事遠き山国であって、塩の供給をば北条氏に仰いだ。北条氏は公然戦闘を交へてゐたのではないが、彼を弱める目的をもってこの必需品の交易を禁じた。謙信は信玄の窮状を聞き、書を寄せて曰く、聞く北条氏、公を因(くるし)むるに塩をもってすと、これ極めて卑劣なる行為なり、我の公と争ふところは、弓箭(ゆみや)にありて米塩にあらず、今より以後、塩を我が国に取れ、多寡ただ命(めい)の儘なり、と。これはかの「ローマ人は金をもって戦はず、鉄をもって戦ふ」と言ひし、カミラスの言に比して尚余りがある。ニイチェが「汝の敵を誇りとすべし、しからば敵の成功はまた汝の成功なり」と言へるは、よく武士の心情を語れるものである。
 実に勇と名誉とは等しく、平時において友たるに値する者のみを、戦時における敵としてもつべき事を要求する。勇がこの高さに達した時、それは仁に近づく。

 さて相も変はらず、コロナウイルス対策に「思ひやり」たる言が、無症状者へのマスク強要(ファシズム)やワクチン接種を薦める理屈に悪用されてるが、曲学阿世の輩と言はざるを得ない。

『勇がこの高さに達した時、それは仁に近づく。』
勇なき思ひやりとは、仁とは言へず、卑屈である。

※参考文献
  • 「新渡戸稲造著 矢内原忠雄譯 武士道」
  • 「奈良本辰也譯編 葉隠」
  • 新渡戸稲造著 矢内原忠雄譯 武士道 奈良本辰也譯編 葉隠

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