奠都(てんと)とは、「都を定める」といふ意味で、平安奠都とも云はれるやうに先例があり、これまでに書かれた最も詳しい書物である『東京奠都の真相』(岡部精一著 大正六年 1917)は奠都をタイトルに用ゐてゐる。官選の歴史書である『維新史』(全五巻、文部省編、昭和14年~昭和16年 1939~1941)でも奠都が用ゐられてゐた。また明治百年を記念しようといふ風潮の中で編纂された、最も詳しい東京の近代史である『東京百年史』(全六巻)の第二巻「首都東京の成立」(昭和54年 1979)でも、節の見出しは東京奠都といふ表現である。
では何故「奠都」を用ゐるのか?
東京の遷都に関して、政府の公的な声明がなかった。法令も布告・布達も一切無しであった。
何より、平安遷都のやうな天皇陛下の詔が未だ出されてないのである。
抑も奠都とは、京、東京の双方「みやこ」といふ意味であり、遷したとは違ふので、「遷都ではなく奠都が正しい」といふ説明が公式な見解と個人的にも思ふのだが、佐々木克氏は、
『然しだからといって、遷都でなかったといふ事ではない。当時の政府首脳は、はっきりと遷都と認識してゐたのである。但し同時に、遷都への反対論者や京都の市民への配慮から「遷都の発令」は急がなくてもよいと主張してゐたのである。』
このやうに「東京遷都」であると主張されてゐる。だが私自身は、あくまで「遷都ではなく奠都」を曲げず、佐々木氏の著書を参考に「東京奠都の真相」を掘り下げていきたい。
慶応三(1867)年の秋ごろの段階になると、遷都といふ事が唐突で違和感を感じる話としてではなく語られてゐた事が、長州藩の柏村数馬の談話によってわかる。
慶応三年の秋より以前に唯一、場所まで特定して遷都について主張された史料に、久留米水天宮の祠官で尊攘派の巨頭といはれる真木和泉の意見がある。京都の尊攘派のリーダーとして、朝廷内にも大きな影響力をもつやうになってゐた真木が、孝明天皇の大和親征行幸を進めてゐた(実際には挙行されなかった)文久三(1863)年七月に、朝廷に献策した「五事献策」の中でかう述べてゐる。
『蹕(ひつ)を浪華(なにわ)に移す事』
蹕とは天子の行幸または行幸の際に天子の乗る車を言ふ。だから「蹕を浪華に移す事」といふ事は、浪華(大坂)に行幸するといふ事だけではなく、天皇が一定期間大坂にお移りになる事を意味してゐる。遷都とははっきり言ってゐないが、遷都に近いものを考へてゐたと見る事ができよう。
大坂に移るべき事由については、次回以降に纏めたい。
- ※参考文献
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- 「佐々木克著 江戸が東京になった日」
- 「吉原康和著 靖国神社と幕末維新の祭神たち」
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