崎門三先生の学問思想 ~山崎闇斎、浅見絅斎、若林強斎~ 皇紀2681年

 正統な崎門学派たる近藤啓吾先生は、
『三先生(山崎闇斎、浅見絅斎、若林強斎)の学問姿勢は一体にして、闇斎先生を、絅斎・強斎先生はよく継いで発揮したといってよい。しかし仔細に観察すると、闇斎先生の学問は厳密であって壮大雄偉であり、絅斎先生の学問は厳格であって剛毅であり、強斎先生の学問は繊細であって情趣豊である。』と仰る。

 崎門学の創始者たる山崎闇斎先生の神道説は、文字通り従前存在した諸神道を集大成したものであるが、その中核をなしてゐるものは、伊勢と吉田の両神道であって、即ち伊勢神道を大中臣精長に、吉田神道を吉川惟足に受けたと云はれてゐるが、それは代表的表現であって、先生はその他にも忌部を初めとして諸々の神道説を学んでをり、かつ先生は精長や惟足に会ふよりも早く、既に伊勢神道は『倭姫命世紀』『宝基本記』を初めとするいはゆる五部書や北畠親房の諸著書に触れてをり、吉田神道も夙に吉田家の古い注釈書に目を通してゐた。只、精長や惟足よりその伝を受けたといふ事は、その正統の伝を得る事によって、我もその神道の根源に連なる事ができたといふ事であって、これより我流に神道を考へるのでなく、自分も神代以来の精神的信仰的生命に連なる事ができたといふ大自覚を持ったといふ事に外ならなかった。
 それに比べ、度会延佳も吉川惟足も、その奉ずる学説から出る事ができなかった。否、出ようとしなかったのである。

 さて、闇斎先生に入門した浅見絅斎先生は、闇斎先生にとって初めての手ごたへのある門人であった。若き日の絅斎先生は、朱子学の卓越した論理に心酔し、その厳粛なる倫理観と、徹底せる合理性に我が学問の方向を考へてゐた。それが為、一面朱子学の厳粛なる論理を追及しながら、一面宗教といふ不可知の世界にも深く沈潜してゐる闇斎先生に対しては、その剛毅にして屈する事を知らぬ性格と相俟って、一旦は全霊を捧げて心酔しながら、やがて師の学問より離るるに至った事も、已むを得なかったかも知れない。

このやうに一旦師より離れた絅斎先生は、『靖献遺言』の編纂を通じ、師の偉大を知り自らの誤れるに気づいて、再び亡き師の学問に復した。これより嘗て拒んだ神道にも心を寄せ、門下の神道を修める事を禁じなかっただけでなく、自身も神道を取上げて道を語る事も少なくなかったが(常話箚記)、しかしそれは真に神道の根本に触れたものでなく、儒学の力を仮りて神道を説くといふものであったこと、若林強斎先生が語られた通りであった。ここに剛毅不屈の性、あくまで自ら奉ずる学問より脱する事無かった先生の限界を見るのであるが、それ故にそれを超えて闇斎先生晩年に復する事をもって、自身の学問の出発とし、絅斎の門人たるもの『血ノ涙ヲ流して歎』かねばならぬと決意したのが、若林強斎先生の学問なのである。

 若林強斎先生の学問について、もう少しだけ記しておきたいが、長文に至った故、次回に譲るとしよう。

※参考文献
  • 「近藤啓吾著 崎門三先生の學問」
  • 近藤啓吾著 崎門三先生の學問

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