白人社会の音楽産業の誘ひに甘んじなかったデトロイト・テクノ ~デリック・メイとホアン・アトキンス~ 皇紀2686年

 デリック・メイは、主流に媚びる事なく、アンダーグラウンドの精神を貫き、たった一人で戦ってゐた。これは中々真似できる態度ではない。かつて黒人作家のジェームズボールド・ウィンは『白人へのブルース』の中で、黒人は白人に去勢されたと言ったが、少なくとも “デトロイト・テクノ” にそれは当てはまらない。
 しかし、 “デトロイト・テクノ” のこれほどのパーソナリティを目の当たりにして指を咥へて眺めてゐる程、イギリスの音楽産業も鈍感ではなかった。策士トレヴァー・ホーンで知られる<ZTT>は、ニール・ラシュトンを通じてデトロイトのビルヴィレ・スリーに興味を示してゐた。『Techno! The New Sound of Detroit』とインナー・シティの成功によってヴァージン(イギリスの大手メジャーレコード・レーベル)はコンピレーションの第二弾『Techno2』を耶蘇教暦1990年にリリースしてゐたし、何よりもデリック・メイのやうなアグレッシブな態度をもったDJを過去に見た事がなかった。

Techno! The New Dance Sound Of Detroit
 レーベル: 10 Records (Virgin)

Techno 2
 レーベル: 10 Records (Virgin)

<ZTT>は1980年代はアート・オブ・ノイズやフランキー・ゴーズ・トゥ・ザ・ハリウッドで成功し、1990年代に入ってからはマンチェスターのテクノ・グループ、808ステイトのオリジナル・メンバーだったジェラルド・シンプソンは “Strings of life” に触発された曲 “Voodoo Ray” をヒットさせ、また808ステイトの方でも “Strings of life” に触発された曲 “Pacific State” をヒットさせてゐた。<ZTT>はこのジャンルに可能性を感じ、それでデトロイトのビルヴィレ・スリーに興味を抱いたのであった。が、<ZTT>とラシュトンの構想は、彼らに黒人版ペット・ショップ・ボーイズをやらせる事だった。

A Guy Called Gerald – Voodoo Ray

808 State – Pacific State

 この提案を勿論彼らが引き受ける筈がなかった。また、トレヴァー・ホーンの方でも、ルックス的に見てスター性にかける彼らがショウ・ビジネスの世界で成功するのか疑問があった。デリック・メイはトレヴァー・ホーンにかう言はれたのだ。「君はシールみたいになれるのかね。シールはどこにゐても目立つし、どこにゐても彼の周りには人が群がってくる。彼にはスターの資質といふものがあるんだ。それが君にあるのかね。」
 この事件は、デリック・メイとニール・ラシュトンの間に亀裂を生む事になった。元はと言へば、ラシュトンが1987年にメイに連絡をつけた事がデトロイトとイギリスの、もしくはインナー・シティの成功の始まりだった。が、音楽産業の想像以上の生臭さにデリック・メイは耐へる事ができなかった。こんな産業に中にゐるくらいならもうレコードは作るまい、メイはそこまで思ひ詰めてゐた。
 デリック・メイは回想する。

レコード会社とトラブったんだ。そんな中で、レコードに対する愛情が冷めてしまったんだな。音楽とのロマンティックな感情、恋愛感情が冷めてしまった。情熱がなくなってしまったのさ。女性との付き合ひに譬へるなら、もう俺は彼女を愛してゐなかった。だから別れた。つまりかういふ事さ。1990年、俺のマネージャーをやってゐたニール・ラシュトンは俺に新しいプロジェクトを提案してきた。シールといふ黒人シンガーと一緒にやれと言ふんだ。俺はそれを断った。次は<ZTT>のトレヴァー・ホーンがやってきた。奴は、俺とホアン・アトキンスとケヴィン・サンダーソンの三人でバンドを組めと言った。それはいいアイディアだった。けれど奴が望んでゐたのは黒人版ペット・ショップ・ボーイズだった。そんな事、できないだろ?
俺は音楽を作りたかったけど、もうレコードは作りたくなかった。

 シカゴハウスの多くの人気DJやプロデューサーがメジャーと契約し、やがてその全てが失敗に終はった事を思へば、この時デリック・メイやホアン・アトキンスが下した選択は、90年代のデトロイトのアンダーグラウンドにとって極めて重要な選択だった。イギリスの音楽産業の誘ひに甘んじなかった彼らに残された道は、大きな力に頼らず、インディペンデントでやっていく事だけだったのだから。
 1990年、ホアン・アトキンスが自身の<メトロプレックス>ではなく、メイの<トランスマット>からリリースしたシングル「Ocean to Ocean」には、当時のデリック・メイとアトキンスの気持ちがよく表れてゐる。このタイトル曲 “Ocean to Ocean” もアトキンスの代表曲のひとつだが、より黒さを増したファンクのベースラインにジャズ・テイストのストリングスが被さってゐる。

Model 500 – Ocean to Ocean

 当時、もしデリック・メイやホアン・アトキンスが、ホイホイと白人社会の音楽産業の誘ひに応じてゐたら、その後デトロイト・テクノは崩壊し、現在の、デトロイト・テクノからの継承発展型である正統なテクノはクラブに存在せず、R&Bやヒップホップのやうに、白人ポップスのビジネスに黒人といふイメージを売る商用物と化してゐたかもしれない。
かうなれば、日本の保身音楽メディアは、喜んでビルヴィレ・スリーを報道するだらう。
 いづれにせよ、当時の<ZTT>は最低だが、YMOの母国でありながら、ビルヴィレ・スリー自体を報道しようとすらしない日本の保身音楽メディアは、さらに論外である。

※参考文献
  • 「野田努著 ブラック・マシン・ミュージック ~ディスコ、ハウス、デトロイト・テクノ~」
  • 野田努著 ブラック・マシン・ミュージック ~ディスコ、ハウス、デトロイト・テクノ~

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