遣唐使中止 ~菅原道真公の建議~ 皇紀2681年

令和3年
皇紀2681年
仏暦2564年
耶蘇教歴2021年

あけましておめでたうございます。

 私は元旦、既にSNSで更新しましたが、菅原道真公を奉祀する亀戸天神に参拝してきました。道真公は、宇多天皇の忠臣として著名です。

性即理

(図壱: 亀戸天神と東京スカイツリー)

 また、亀戸天神の近くに、天台宗の光明寺がありますが、こゝは父親方の齊藤家の菩提寺なので、墓参りもしてきました。
 実父は、亀戸で生まれ、小学5年まで亀戸で過ごし、小学5年時に小岩に引っ越したさうです。親父の元実家は、亀戸駅から徒歩5分程の場所だったとの事です。

 さて、宮中では元旦、四方節(四方拝)の祭儀で明ける。四方節(四方拝)に続いて、歳旦祭が斎行される。
宮中の御祭儀 ~年のはじめ~

 菅原道真公については、以下のサイトに詳説されてゐる。
菅原道真「怨霊から受験の神」に転身できた理由

 道真公については私自身、あまり調べたことがなかったが、私物の八幡和郎氏の書籍にて些少触れてるので、以下は、その一節である。


 唐との間では、光仁天皇の宝亀9(778)年に遣唐使の帰国の際に皇帝の気まぐれで唐の使節が随行し、天皇と使節との面会の時の上下関係に悩んで東西対面といった形で誤魔化さざるを得なかったりして、日本側が熱を失ひました。

そしてかう続く。

 その後は、最澄や空海が参加した延暦23(804)年の遣唐使まで派遣は行はれず、承和の遣唐使と云はれる承和5(838)年の派遣がもう一度あったものの、寛平6(894)年に大使に予定されてゐた菅原道真の建議で延期され、そのまま唐が滅びたので、これもまた、明治まで正式の国交はない儘になりました。

 歴史の授業で年号を覚える時は白紙(894)に戻さう遣唐使と覚えたと思ふが、寛平6(894)年、上記にあるやうに菅原道真公の建議で、その計画は中止された。
然し、中止後も道真公の大使としての任は解かれなかった。つまり、あくまで延期であって、寛平6(894)年の時点では遣唐使自体は廃止に至ってゐなかった可能性があるのだ。
 そして、大使であった道真公は延喜元(901)年に藤原時平との政争に敗れ、大宰府へ左遷されたが、同時に遣唐使の大使といふ任も自然消滅した。

 それでは、遣唐使が菅原道真公の建議によって中止になった理由を探る。

 まづ、唐が衰退した為、危険を冒して大陸に渡る程のメリットがなくなった事(政治的意義の低下、留学環境の悪化など)と、その唐の衰へによってアジアの国際関係に変化が生じた事。
 道真公は、「遣唐使とは元々日支交流の為に、聖徳太子の頃から対等な関係として開始したのに、いつの間にか朝貢使のやうに扱はれてゐるので、これは国辱である」と唱へた事。

 爾後、遣唐使中止によって、遣唐使船とは別に既に唐や新羅とは私貿易が行はれてゐたが、10世紀に入ると益々貿易が盛んになり、これが後の日宋貿易へとつながっていく。また文化面においては大陸文化の影響が薄れ、日本独特の文化が発達した。

遣唐使が廃止された理由は対等な関係が築けなくなったから!?

 遣唐使の中止は、国風文化の発展に多大な影響を及ぼしたと言へる。

 幕末維新の時代も、菅原道真公を天神様として崇める天神信仰は、一般的であった。高杉晋作、伊藤博文、坂本龍馬などの志士が密会したと伝へられてゐる「暁天楼(ぎょうてんろう)」は、防府天満宮の境内にある。防府天満宮に祀られてゐるのは、学問の神様「菅原道真公」である。道真公は、大宰府へ下る途中に防府を訪れたとき「願はくはこの地に住まひを構へたい」と願ったが、延喜3(903)年、道真公は大宰府で逝去した。延喜4(904)年、道真公の生前の願ひを叶へる為に建立したのが防府天満宮である。

 特に高杉晋作は、天神様を信仰してゐただけでなく、道真公の生き様に憧れ尊敬の念を抱いてゐた。

 最後に、道真公の才能を買って右大臣にまで取り立てた宇多上皇(朱雀院)の宮滝御幸の時に詠まれた歌で締めくゝる。

このたびは 幣(ぬさ)も取りあへず 手向(たむけ)山
紅葉(もみぢ)の錦 神のまにまに


(菅家(百人一首24番)『古今集』羈旅・420)
※菅家は尊称で、菅原道真公の事。

※参考文献
  • 「八幡和郎著 領土問題は「世界史」で解ける」
  • 八幡和郎著 領土問題は「世界史」で解ける

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