仁と礼(孔子) ~無症状マスク着用は果たして「仁」なのか?~ 皇紀2680年

 仁と礼。
「仁」とは、他社を慈しみ愛する「思ひやりの気持ち」の事である。
「礼」とは、「仁(思ひやり)を態度として表す礼儀作法」の事である。
孔子は、礼(儀式、儀礼)を「仁」の気持ちを表したものだと再定義した。

 「民の儀を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく」
人としてやるべき事をやり、神秘的な存在については敬ひながら、遠ざけておかう。
 敬遠の語源となった有名な『論語』の一節であるが、このやうに孔子は神秘的な存在を否定したり対立したりするのではなく、きちんと敬ひながらその上であまり関はりあひにならない事を薦めた。

 抑々「礼」とは即ち、儀式であり儀礼であり「所作振る舞ひ」の事であるが、元々それらは「仁」がどうかういふものではなく、神秘的な権威からくるものであった。
 例へば、「かつて偉大な王がかうしたといふ故事にちなんだ」もしくは「神や霊はかういふのを嫌がるからかうしなければならない」等々。儀式や儀礼の一つ/\の作法には、さういった何らかの権威が必ず関連づけられてゐた。因みに礼(リィ)の大元の起源は、離(リィ)から来ており、原始社会における宗教的禁忌(タブー)を避ける事がその本質であったと言はれてゐる。

 「礼」について、飲茶氏の表現を引用する。

 だからこそ、儀式や儀礼はきちんと守らなければならない。無知は罪。知りませんでしたではすまされない。もし国家の祭儀で誰かが作法に外れる事をしようものなら、みんな顔を真っ赤にして怒った。
「権威を蔑ろにする不届きものめ!」

 だが、孔子はさういふものの権威を真っ向から否定した。
「儀式や儀礼の作法っていふのは、何かの権威に強制されてやるものぢゃないだろ!
相手を想ひ、気遣ふ気持ちが形になったもの、それがほんたうの作法なんぢゃないのか!」

 昨今、無症状なのにマスクを着用する事が思ひやり(仁)であると、吹聴されてゐる。
仮にさうだとした場合、これが「礼」になってしまふ。
また、仁と礼は、東洋道徳であるがゆゑ、マナーやエチケットのような西洋文化とは別物だ。
 これは「仁」ではなく、全体主義化の為の詭弁である。

※参考文献
  • 「飲茶(著) 史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」
  • 飲茶(著) 史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち

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