易の基礎知識 ~五経の易経~ 皇紀2680年

 田中恵祥氏の著作、『易経の知恵』の第一章の冒頭文には、このやうに記述されてゐる。

 今より三千五百年前に支那で生まれ、皇帝の学問として発展してきた易は伏犠(ふっき)によって始められ、その後、周の皇帝の文王(ぶんのう)とその子 周公により大成されたとされ、周易とも言はれてゐます。
そして「易経」といふ経典にまとめられたのです。これは後に、儒教の開祖である孔子が、儒教の経典である五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)の筆頭に採用したほどに素晴らしい内容の価値あるものなのです。
 その後、秦の時代に、始皇帝による焚書坑儒といふ、それまでの歴史的価値のある貴重な文献が厳しい思想統制の下、灰になってしまふ事件がありましたが、さすがの彼も易経には敬意を表したと思はれ、易経だけは難を免れました。以来、現代に至るまで各分野で様々な人に活用され、かけがへのない人類の遺産となってゐます。

(田中恵祥著 易経の知恵 24頁)

 こないだ、テレビ番組『志村友達』を観てる途中、ハライチの澤部佑が、コント内で占ひ師の役で出演してた過去のVTRを流すシーンがあったが、その時、
志村けん「それ何本あるの?」
占ひ師の澤部佑「(小声で)35本(って言ってた気がする)」
(笑)が起きて、
志村けん「それ何て云ふの?」
占ひ師の澤部佑「(少し悩んで)これ何だよ、知らねえよ…」
そこで志村けんも小声で、「筮竹(ぜいちく)」と教へたが、それでも、
占ひ師の澤部佑「(また小声で)デンチク」
と志村けんの小声からさう聞こえたのか?デンチクと答へた。
そして爆笑になった。

 そんなシーンもあって、このブログにも、最低限の易占法などを纏めておきたいとなった。
 その筮竹とは竹の棒の事で五十本、算木(さんぎ)とは陰陽の印がついた六個の用具の事である。

【筮竹】
易占の仕方について(筮竹)

【算木】
千里眼@易占 算木の使いかた

【太極図】


太極図
(図壱: 田中恵祥著 易経の知恵 丗三頁)

 易の宇宙観、社会観は、陰陽の原理を根本として成立し、その相反する陰と陽が混沌と一体になって『太極』を形成し、天の意思となり、これを宇宙の元気と考へる。
そして、人間はこの中で天地自然と一体になって存在すると考へる、天人合一の思想が易の根本精神である。太極の事を易神といふ場合もある。
 まづ最初に、太極のもとに陰は『⚋』、陽は『⚊』といふシンボルマークが出来た。これらのシンボルを指して『爻(こう)』といふ。
次に『八卦(はっか)』、『六十四卦』と発展していく。
 また、爻の説明文として『爻辞(こうじ)』がある。当時の天地自然を基に、「1乾為天」は龍の一生で、「53風山漸」は鳥の一生で説明してゐる。
爻辞判断、即ち易経に則って実際に占ふ事を『易占』または『実占』といふ。また、占ふ問題を占的といふ。

【八卦】


八卦
(図弐: 田中恵祥著 易経の知恵 丗五頁)

【六十四卦】


六十四卦
(図参: 田中恵祥著 易経の知恵 六十三頁)

 今日は、易聖と呼ばれた日本人の易断家を書き留めて、締めくゝりたい。
「横浜の父」と呼ばれた高島呑象(本名: 高島嘉右衛門)氏は、一方で、三十歳前後より易経の研究と実占に取り組み、易経の爻辞、爻辞判断の名手として当時の政界、財界の要人の相談役、指南役として日本の政治、経済の発展に影響を与へる存在だった。
高島氏は、江戸時代末期の天保三年(1832)に京橋の材木問屋兼建築業を営む家に生まれ、家業を継いだ。

 次回は、爻について、もう少し理解を深めたく、触れていきたい。

※参考文献
  • 「田中恵祥(著), 深川宝琉(編集) 易経の知恵」
  • 田中恵祥(著), 深川宝琉(編集) 易経の知恵

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