昭和金融恐慌の遠因 ~高橋是清蔵相による三位一体の方策~ 皇紀2680年

 昭和金融恐慌の遠因をさぐると、金融機関の非健全性、特にその中でも台湾銀行の放漫経営が事態悪化の要因となってゐた。

 昭和二年四月十八日、台銀及び近江銀行のよもやと思はれてゐた休業、さらには同月廿一日の十五銀行の休業により、若槻憲政会内閣は責を負って辞職し、銀行に対する民衆の信頼は地に堕ち、銀行取付騒ぎは燎原の火の如く全国に拡大し、日銀の手持銀行券も不足をきたし、大銀行ですら安泰ではない情勢になった。
そして若槻憲政会内閣の総辞職により、総理大臣に任命された政友会総裁の田中義一は、当時74歳の高橋是清の自宅を訪ね、高橋に蔵相を引き受けて頂きたい、と懇請した。

 高橋是清について、財政の専門家といふ評価が見られるが、高橋は本来金融の専門家である。高橋は、明治廿五年、39歳で日本銀行に入行し、44年に日本銀行総裁になった。
総裁から蔵相になったのは、大正二年、山本権兵衛内閣の時だったが、当時高橋は59歳だった。爾後、2度の蔵相を経て大正10年には首相に就任。あだ名は、ダルマであった。

 高橋是清蔵相を擁した田中義一新内閣(政友会)のとった措置は、モラトリアム(法令により銀行預金など全ての債務の支払ひを一定期間猶予すること)、五億円の損失補償づきの日銀特融と二億円の損失補償づき台銀むけ特融からなる三位一体の方策であった。
 平時におけるモラトリアムは、先例のない非常措置であったが、事態の収拾には、まづその発布が不可欠であった。だが、さきの台銀救済勅令の否決といふ経験もあり、この緊急勅令とて枢密院にて裁決されるとは限らず、またその風聞天下に伝はっては、ます/\騒ぎを大きくする恐れがあったので、市中銀行に暫時の一斉休業を要請した。かくて、全国の銀行は廿二日、廿三日の両日自主的休業といふ形式で臨時の休業を行った。

 さきの台銀救済勅令の否決については、後日、より詳しく纏めたいが、簡潔に言へば、若槻憲政会内閣が決定した緊急勅令案の事である。
ざっくばらんに云ふと、日銀が期間限定で台銀に対し無担保にて特別融資を可能にする勅令案であり、政府は、四月十三日にこの緊急勅令案を決定し、十四日枢密院に諮詢の手続きをとった。
枢密院は、早速精査委員会を十四日より開き、緊急勅令案の審議に入ったが、十五日の委員会で否決すべきものと決定したのである。

 話を戻すが、この廿二日、廿三日両日の銀行一斉休業は、廿一日の情勢からみて、まさに時宜を得たものと云ふべく、一日遅れゝば暴動にまで発展しかねまじき騒ぎを、一時阻止したのである。また、しかるがゆゑに、支払猶予令の効果を十二分に発揮できたのである。新内閣の高橋是清蔵相は次のやうに言ってゐる。
「この猶予令の効果の完きを得たのは、全くこれは銀行家諸君のご決意によって二日間の休業をせられた賜物である。もしこの事無かりせば、この猶予令の効果は八分通り失はれてをったらうと思ふのであります。」

 次回以降、この三週間にわたるモラトリアムによって発生した経済麻痺たる甚大な損害から、金融市場が平静に推移していった経緯を辿っていくが、まづ、上記の支払猶予令について調べることにする。

※参考文献
  • 「高橋亀吉、森垣淑(著) 昭和金融恐慌史」
  • 高橋亀吉、森垣淑(著) 昭和金融恐慌史

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