国民政府の正規軍以外には、投降したり、占領したりする事を禁止するといふのである。当時、支那政府として認められてゐた重慶政府としては、当然の要求であった。しかし、現実には、支那各地で、中共のゲリラ部隊が、日本軍に対し即時投降、武器引渡しを要求して、拒絶した日本軍との間に、戦闘が起こってゐたのである。中共は、日本軍前線の背後に、解放区を作り、活発なゲリラ戦を行ってきた。一方、国府軍は、日本軍の攻勢に連戦連敗、西方に押しやられ、停戦(昭和20年 8/15)後も、日本軍占領地域への進出が遅れてゐたのである。
支那派遣軍総参謀副長今井武夫少将がその現実を指摘すると、国府側は、
「何応欽総司令官の命令を受領した者以外は、一切、土匪と見なして日本軍が自衛行動に出てもやむを得ない」
と、答へた。
※8月15日午後、南京の支那派遣軍総司令部に、国民政府軍第三戦区指令、顧祝同将軍の軍使として、戴笠(張叔平)将軍とその随員が現れた。張将軍は、今井少将と、昭和20年春以来、秘密和平工作を続けてゐた人物である。
貧弱な装備に悩む中共軍(八路軍)としては、日本軍の持つ武器、弾薬、食糧など軍需物資は、ヨダレの出る程手に入れたいものであった。これを獲得できるかどうかが、来たるべき国共内戦の勝敗を決すると考へたのである。
ソ連軍の満州・内蒙古に対する急速進撃の目的の、重要な部分は、この日本軍の武器弾薬をできるだけ早く接収して、当時はまだ”同志”であった中共軍に引き渡す事であった。だからこそ、満州でも内蒙古でも、通常の戦時国際慣習による逐次停戦、ある期間を置いた武装解除といった手段をとらず、停戦後も、実力(武力)を以てする即時武装解除に懸命になったのである。
特に内蒙古は、在支那日本軍の兵站基地であり、膨大な軍需物資が集積されてゐた。ソ連軍は、それを狙ってきたのである。
そも/\、ルーズヴェルト米大統領が、ヤルタでスターリンソ連首相と密約を交はし、満州・内蒙古・千島・樺太への侵攻と引き換へに、千島・樺太の領有と、満州での権益を認めた、重要な目的は、ソ連に蔣介石政権を支持させる事であった。しかし、ルーズヴェルトの企図は、完全に裏目に出て、ソ連軍の満州、熱河省、内蒙古への侵攻は、国共内戦で蔣介石軍が完敗する基礎を作ったのである。
複雑な国際情勢に翻弄されて国破れた後も戦闘を強ひられた日本軍、流亡を強ひられた在留邦人こそ、いいツラの皮であった。
ゲ・カ・プロトニコフ著「軍国日本との戦ひに於けるソ軍の勝利」によると、八路軍の聶栄臻将軍は、8月23日、ソ連ザバイカル方面軍司令官、イ・ア・プリエフ大将のもとに使者を送り、次のやうな手紙を届けてゐる。
「貴官は日本の壊滅と支那人民の解放に大きな援助を示されました。私共は、深く感謝しております。しかし、私共の前途には、尚重苦しい闘争が控へてゐます。……私共は貴官らに期待し、将来も援助をお願ひします。最近貴軍が日本軍から奪はれました戦利品、武器弾薬、自動車、無線機その他各種の戦闘機械をお譲り下さい」
八路軍は、来たるべき国共内戦に備へて、辞を低くしてソ連軍に、戦利品の譲渡を要請してゐるのである。
- ※参考文献
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- 「稲垣武著 昭和20年8月20日 日本人を守る最後の戦い 四万人の内蒙古引揚者を脱出させた軍旗なき兵団」
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