昭和廿年八月十日、日本政府は、
ポ宣の条項は、これを受諾するも、天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解の下に受諾す、右の了解に誤なき旨表明せられんことを切望する
旨の最後の申入れを連合国に送った。その返事として、翌11日アメリカの国務長官バーンズ氏の名前で送ってきたものによると
天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項実施の為、必要と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下におかれるものとす
とあり、即ち、日本国軍隊の無条件降伏であって、日本は、ポツダム宣言の諸条件のもとに有条件降伏したのである。
これについては、以前の記事でまとめた。
ヘーグ条約43条の内の、「絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ」について
明治40(耶蘇教暦1907)年、陸戦法規慣例ニ関スル条約及ビ規則第三款「敵国ノ領土ニ於ケル軍の権力ニ関スル規則」の第43条に
国ノ権力ガ事実上占領者ノ手ニ移ツタ上ハ、占領者ハ絶対的ノ支障ガナイ限リ、占領地ノ現行法ヲ尊重シ、出来ル限リ公共ノ秩序及ビ生活ヲ回復確保スル為施シ得ベキ一切ノ手段ヲ尽クスベキデアル
とあるが、マッカーサー元帥は、明らかにこれに違反して、日本の憲法を尊重しなかったばかりか、「絶対的支障がなかった」にも関はらず、一部過激左翼分子以外は、日本国民が心から尊重し、遵守してゐた帝国憲法を抹殺して、「新ケンポー」に変へるに幕僚等の作成にかゝる民政局原案を以てし、これを強制採用させたのである。
一方、ドイツ国民の占領治下の文化的攻防戦のクライマックスは、占領軍の憲法制定命令に対して、西ドイツ11州の代表者達が、一致して反対した時であった。
主権も自由も持たない、占領下の我々が、しかも東西に分割されてゐて、どうして憲法を制定する事ができるか。もし占領軍がドイツ国民に対して、憲法の制定を強要するなら、我々は、一切の占領政策に対する協力を拒絶する
と言って、強硬に抗議し、英、米、仏三国の軍政長官らをして、その意気と正論に服せしめて、単なる「西ドイツ基本法(ボン基本法)」を制定するに留まったのである。ドイツの指導者達は、その上、念を入れて、その基本法の前文には
ドイツ国民は、過渡期に於ける国家生活に、新秩序を付与する為、この基本法を制定する
と記載し、さらに末尾の第146条には、特に
この基本法はドイツ国民が自由なる決定によって議決した憲法が効力を生ずる日に於いてその効力を失ふ
との注意規定まで設けて、憲法の尊厳を確保し、この基本法の限時法たる性格を明確にしたのである。
- ※参考文献
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- 「菅原裕著 日本国憲法失効論」
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