純然たる復讐行為 ~東京裁判とニュルンベルク裁判における規定の違ひとは~ 皇紀2685年

 本裁判は国際裁判に名をかる各連合国の純然たる国内対策を目的とする復習行為に過ぎなかった。即ち、戦勝の誇りに酔った国民が日本軍の残虐行為の罵倒に夢中になってゐるのに、その責任者の一人さへも処罰できないでは、指導者の面目が立たない。そこで国際法や刑法理論は如何にあらうともその国民の興奮を鎮静さす為には、各国共に勝ち戦さの土産が必要になってくる。これが国際軍事裁判所が設けられた原因であり、七個の首をあげてその各々の国民に土産にした所以でもある。
 即ち、判決理由は色々と勝手に書かれてあるが、実質上の狙ひは、南京虐殺行為の責任者として松井支那派遣軍総司令官を、泰緬鉄道の残虐行為の責任者として木村方面軍司令官を、シンガポール残虐行為は板垣司令官、バターン死の行進の責任者として武藤参謀長、真珠湾は東條大将といふ按排で、そして満州、支那の策動者として土肥原大将を、更にソ連、支那に対する強硬政策を持し、陸海軍大臣現役制を復活させ、国家総動員法を制定し、対支三原則を確立した南京虐殺事件当時の外務大臣広田弘毅氏の首を唯一人の文官代表として加へて、合計七個の首級をあげたのであった。その方面での主役をつとめなければならなかったこれら七人の有力者こそいい災難であったのだ。

 殺さうと思へば全部を殺し得る勝者の裁判だ。平和 – 人道 – 正義 – 文明を看板にした憎しみの裁判!
しかし裁く者は全て、旧敵国人といへども、また公正を職とする司法人……半夜心静かに戦争裁判の使命と、原子力時代における世界平和の確立とを沈思する時、その悩みも深刻であったであらう事は想像に難くない。人間が感情と理性との板挟みになり苦悩する時、その行動は中途半端の間を出入し徘徊する。それは個人においても団体においても今も昔も変はりはない。
 東京裁判11人の判事達も、被告らを極刑にすべきや否やについては、さすがに意見が分かれた。木戸、大島、荒木、嶋田は、五対六即ち一票の差で死刑を免れ、広田は一票の差で死刑になったといはれる。しかも広田の死刑反対派五票中三票までは無罪論者であったといふ。
 殺す者にとっては格別大した理由もない浮動票の一票であったらうが、殺される者にとっては絶対である。フィリピン判事は如何にもフィリピン代表らしく、これでも軽過ぎるといふ単独意見を出してゐるが、平和に対する罪といふ新しい制度でかつ法律上、事実上誠に疑問多き本件で、七人もの死刑を出し、唯一人の無罪を出さなかった判決は、後世の批判の的とならう。

 ニュルンベルク裁判においては四人の判事中、三人の同意がなければ有罪の判定はできない事になってゐた。この比率でいけば東京裁判では八人の同意を必要とする事になる。しかるに東京裁判の条例では過半数の出席があれば開廷ができ、その出席者の過半数で如何なる決定をもできる事になってゐたので、最小限度六人の出席者があり、かつその場合四人の同意があれば、死刑の判決もでき得る仕組みになってゐた。有色人に対する反感か、ドイツと区別した理由はどこにあるか、実に乱暴な規定であった。そこに所謂「七人組」なる判事団の存在価値があり、公判とは別個に暗躍した判決起草委員会の策動の余地があった。

※参考文献
  • 「菅原裕著 東京裁判の正体」
  • 菅原裕著 東京裁判の正体

Be the first to comment

Leave a comment

Your email address will not be published.


*