遺棄化学兵器問題とは ~約600冊に及ぶ「旧日本軍兵器引継書」~ 皇紀2685年

 『領土問題の真実』といふタイトルから直ぐ様思ひ浮かぶ所は、尖閣諸島、竹島、北方領土であり、確かにこの書籍の構成は、前半がこれらの日本領に於ける事実が書き記されてゐる。
しかし後半は、虚構の「遺棄化学兵器問題」に 紙幅を割いてゐる。前半は、政治観のあるなしを問はず、日本人なら最低限知っておかねばならない知識である為、このブログでもまづは、この書籍の前半から記事に纏める予定だったが、考え直した挙句、今日の記事では、後半の「遺棄化学兵器問題」にする事にした。

 「毒ガス兵器問題」とは、停戦時に日本軍が、支那各地に遺棄したとされる化学兵器を回収する事業で、日本政府は、平成12(耶蘇教暦2000)年以降「旧日本軍遺棄化学兵器処理費用」に9700億円を投じてをり、総費用は1兆円とも言はれる。さらに支那側の言ひ分通りに200万発の遺棄化学兵器があるとすれば、1発3000万円×200万発、実に60兆円の血税が注がれる事となる(日本政府が認めてゐるのは30万~40万発)。ODAの枠組みがなくなって以後も、処理事業で日本からお金を引き出すつもりなのだ。

 ところが、平成18(2006)年3月、水間政憲氏(書籍『いまこそ日本人が知っておくべき「領土問題」の真実 国益を守る「国家の盾」』の著者)は、この遺棄化学兵器問題を根底から覆す史料を入手した。約600冊に及ぶ「旧日本軍兵器引継書」である。元全国抑留者補償協議会(全抑協)会長、斎藤六郎氏が、戦後101回もロシアを訪れ合法的に持ち帰ったもので、戦後の時を経て、山形県鶴岡市にある「シベリア資料館」で著者が発見した。

 現在(執筆当時。平成22(2010)年~平成24(2012)年頃)、日支両政府が吉林省のハルバ嶺ほかで発掘保管してゐる約3万8000発の「遺棄化学兵器」のうち、3万3092発は、南京市周辺から回収されたものだ。南京には、日本軍「支那派遣軍総司令部」があり、南京兵器廠には、「水西倉庫」「紅山倉庫」「下関倉庫」「百菓(幕府)山」などが附設されてゐた。

遺棄化学兵器の発掘場所 平成18(2006)年当時

(図壱: 水間政憲著 「領土問題」の真実 119頁)

 発見した引継書によれば、こゝに所蔵されてゐた全ての兵器(化学兵器を含む)は、昭和20(1945)年9月9日午前10時からの降伏文書調印式で、日本側・岡村寧次大将と支那側・何應欽大将の間で著名調印し、支那に接収された事になってゐる。南京兵器廠の「兵器引継書」は、弾薬、発煙筒などが大量なので、「トン」単位で計算されてゐる。
 これはほんの一例に過ぎない。シベリア資料館に所蔵されてゐる兵器引継書は、北支・中支那・華南方面(即ち支那派遣軍全般)と満州に駐留してゐた関東軍を網羅してゐる。中隊クラスを最小単位として、各軍司令部、兵器廠、連隊、大隊など個別のレベルで引き継ぎ(接収)されてゐた。なかには、電気スタンドやケント紙1枚まで記されてゐるものもあり、停戦後の武装解除、支那側(国民党軍)への兵器引き渡しが、驚くほどの律儀さで遂行された事が分かる。そして引継書には全て日付、場所、授者と受者の著名捺印がされてゐる。のべ数千名の受者(支那側責任者)が署名、捺印してゐるのである。

 昭和20(1945)年8月21日、国民党軍総参謀長蕭毅粛中将と支那派遣軍副参謀長今井武夫少将との会談の席で交付された「備忘録(武装解除の命令書)」で、一切の兵器が国民党に接収されてゐる。
 また満州に於ける関東軍も、ソ連極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥から「武装解除に関する命令書」を手交されてゐた。その中で、全ての「弾薬リスト」の提出を命令されてゐた。

 これらの命令通り、各軍隊が武装解除、兵器の引き渡し(引き継ぎ)を行ってゐた事が、600冊の引継書と関連文書で証明された。即ち、日本軍の兵器の所有権は支那側(或いはソ連に引き継がれた)にあり、遺棄化学兵器問題は日本に責任はないのである。日本軍の兵器は、ポツダム宣言を遵守して関東軍はソ連、支那派遣軍は国民党政府に武装解除されて接収されたのである。本来、日支間に「遺棄化学兵器」問題など存在しないのだ。

※参考文献
  • 「水間政憲著 いまこそ日本人が知っておくべき「領土問題」の真実 国益を守る「国家の盾」」
  • 水間政憲著 いまこそ日本人が知っておくべき「領土問題」の真実 国益を守る「国家の盾」

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