令和三年六月、ILO(国際労働機関)の「強制労働の廃止に関する条約」を締結する為に国内法を整備する法律が成立した。この条約は、ILOに加盟してゐる国が全ての批准を求められてゐる「中核的労働基準8条約」の一つである。
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これにより、ILOの「中核的労働基準8条約」の中で「雇用及び職業についての差別待遇に関する条約」のみが未批准となった。全体としては、ILOが採択した184条約(失効5条約を除く)の内、日本が批准してゐるのは48条約で、全体の凡そ四分の一にあたるさうである。
連合、全労連など、日本の労働団体はこれら未批准の条約の早期批准を求めてゐるやうだ。
そこで、これには連合、全労連それぞれの結成事情を辿る必要がある。
日本労働組合総連合会(連合)の統一時、統一労組懇と太田薫・岩井章・市川誠の三総評顧問に代表される左派は、労働戦線統一運動が現代版「産業報国会」を目指すものになってゐると批判し、それぞれに新しいナショナルセンターの結成を独自に目指す事を選択した。また官公労を含めた全的統一への道のりも、総評系官公労内の反連合派、とりわけ焦点となった大単産の自治労と日教組(日本教職員組合)の内部には相当数の反連合派がゐたが、結局両組織内の反連合派は、統一労組懇が行った、戦闘的伝統を継承する「階級的ナショナルセンター」結成の呼びかけに呼応して、最後の段階で組織を出て行く事になった。
これにより、難航してゐた参加資格問題は自然解消して、平成元年(1989)、七四単産800万人の参加する日本労働組合総連合会(連合)が結成された。
戦後日本において労働運動における左右の潮流をナショナルセンターレベルで代表してきた総評と同盟は、同盟が民間「連合」の発足と同時に、総評も官民統一の連合結成に伴ひ解散した。
統一労組懇系の全国労働組合総連合(全労連)と総評左派の流れを汲む全国労働組合連絡協議会(全労協)が平成元年(1989)に結成されたが、その規模は連合に比べれば極めて小規模なものに留まった。
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上記の結成経緯によれば、連合は右派、全労連と全労協は左派に分類される。一見、間違ってはゐない。さうであるなら、何故、連合もこぞってILO条約に早期批准を求めてゐるのか?
行政改革や規制緩和の推進が右派かどうかは兎も角、80年代にこれらを積極的に支持した政策推進労組会議や全民労協は、官民統一した連合といふ組織に埋没してしまひ、ナショナルセンターレベルにおいて路線問題についての覇権を確立することもなかったのである。
組織問題が路線問題に優越してしまった連合の実態については、次回以降に纏めたい。
- ※参考文献
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- 「久米郁男著 労働政治 ~戦後政治のなかの労働組合~」
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