ヒトラー政権樹立の経緯 ~「ガス室」の有無の検証に触れる前にざっくりと~ 皇紀2681年

 西岡昌紀著 「ガス室」の真実 を読了したが、目から鱗であった。「ガス室」は本当にあったのか?を最大のテーマとしたい。
がその前に、ざっとヒトラー政権樹立の経緯を辿っておく。

 1932(昭和7)年4月、プロイセン州議会選挙が行はれた。プロイセンは当時、ドイツ最大の州で、人口もドイツ全体の3分の2を占めた。この選挙でナチ党は、長年政権の座にあった社会民主党を破って第一党(36.3%)に台頭した。同時に行はれたアンハルト州議会選挙でも第一党(41.7%)となり、アルフレート・フライベルク(1892〜1945)がナチ党初の州首相となった。
 そして7月、運命の国会選挙が行はれた。ナチ党は37.3%、1375万の票を得て「地滑り的な大勝利」をおさめた。ナチ党はついに国会で第一党となった。議席総数608のうち、230をナチ党が占めた。

 1933(昭和8)年1月30日、ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命した。ヒンデンブルクは、特定の政党ではなく、党派を超えた国民、特に右派勢力の全面的な支持の上に、議会を排した統治が行へればと考へてゐた。
 1932(昭和7)年11月の国会選挙で後退したナチ党を尻目に、16.8%、100議席を得て躍進を続ける共産党の存在は、財界人にとって大きな脅威となってゐた。
1933(昭和8)年1月、シュライヒャー首相が軍部独裁の可能性を探ってゐた頃、パーペン前首相は、ヒトラーを首相にして「政権に雇ひ入れる」事を考へてゐた。
 つまり、ナチ党とともに国家人民党と鉄兜団が広範な右派統一戦線を再建し、これを新たな国民総結集政府の基盤とする。そして、パーペンが副首相となりヒンデンブルクの信任を得た保守派の領袖が閣僚としてヒトラーの脇を固める。ナチ党からの入閣は最小限に抑へる。そのやうな態勢ができればヒンデンブルクはヒトラーを首相に任命するだらう。
 パーペンはさう考へてヒトラーの合意をとりつけ、自ら作成した閣僚名簿をヒンデンブルクに手渡した。
 その翌日の1933(昭和8)年1月30日、大統領はヒトラーを首相に任命した。大統領が読み上げた閣僚リストは、パーペンの名簿通りであった。

 上記の「政権に雇ひ入れる」とはどう云ふ事か?
次の3点をあげる。

1 ヴァイマル憲法が定める議会制民主主義に終止符を打つ事。
2 伸長著しい共産党など急進左翼勢力を抑へつける事。
3 強いドイツを内外に印象づけ、再軍備に道をつける事。

 保守派の領袖は、「これらをヒトラーの手を借りて実現できれば、後はまた大統領大権(ヴァイマル憲法第48条大統領緊急令)を使って、ヒトラーを失脚させればよい」と高を括ってゐた。

 ところで、歴代の少数派内閣を支へてきたのは、大統領緊急令だった。だが、ヒトラーの前の政権、特にパーペン政権時代にあまりに頻繁に出された為、大統領緊急命令権の濫用、つまり憲法違反の疑義が発せられるやうになった。

 1934(昭和9)年、8月2日、ヒンデンブルク大統領がこの世を去った。ヒトラーはその日のうちに首相と大統領の権限を合はせもつ総統の地位に就いた。
 

※参考文献
  • 「石田勇次著 ヒトラーとナチ・ドイツ」
  • 「西岡昌紀著 「ガス室」の真実」
  • 石田勇次著 ヒトラーとナチ・ドイツ
  • 西岡昌紀著 「ガス室」の真実

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