万葉集における漢文と万葉假名 ~映画『君の名は。』のタイトルと山上憶良~ 皇紀2681年

 中々面白い書籍を見つけ、且つ読了してゐるので、今月は、
「上野誠著 万葉集から古代を読みとく」
を参考に記事を書かせて頂きたい。

 この書籍に依れば、映画『君の名は。』のタイトルのもとになってゐるのは、

「誰(た)そ彼(かれ)と 我(あれ)そな問ひそ 九月(ながつき)の 露に濡れつつ 君待つ我(あれ)を」(巻十の二二四〇)

と云ふ万葉歌の「誰そ彼」と云ふ言葉である、との事である。

 上野氏が譯すと、

「誰なのかあの人はなどと、私に聞かないでおくれ。秋深まる九月の露に濡れながら、あなたを待ってゐるこの私のことを」

となる。

 上野氏は、天平時代を代表する知識人ならば、躊躇なく山上憶良(斉明天皇6年(660年)頃~天平5年(733年)頃)を挙げてゐる。『万葉集』には、歌のみならず、漢詩文も収録されてゐるから、同時代の知識人の中では、極めて詳細に、彼の思考のありようを知る事ができるのである。それらを読むと、憶良が儒教、仏教、道教、及び老荘思想にも通じてゐた事が分かる。

 では、憶良はどのやうな方法で、自らの思想を伝へようとしたのか。有名な「子等を思ふ歌(巻五の八〇二、八〇三)」から、考察する。

山上憶良の「子等を思ふ歌」

(図壱: 山上憶良の「子等を思ふ歌」)

図壱では、右端からA~Eが原文、A1~E1が漢字假名交り文で示されてゐる。
A1~E1のやうに漢字假名交り文で書いてしまへば、分からなくなってしまふのだが、A~Eの原文を見れば、

Aが漢文、Bが漢文、Cが和文、Dが漢文、Eが和文

 で構成されてゐる事に注意しなくてはならない。
漢字で使用する事においては同じでも、ABDは当時の支那語の書き言葉、CEは日本語の文で書き留められてゐるのである。
 因みに、CEは詩歌を書く文体「韻文」である。歌言葉と口語とは近いので、当時の口語に近いものと考へておいてよいだらう。CとEは、漢字の音を用ゐて書く、一時一音表記で、漢字の本来持ってゐる意味を切り捨てて、漢字の音のみを借りて、歌を書き留めてゐるのである。これが所謂、万葉假名である。

 つまり、山上憶良と云ふ当時の知識人は、漢文と万葉假名を使った和文を組み合はせて、自らの思惟を表現してゐるのである。

 漢文による序文に、万葉假名で記された和文の歌と云ふ組み合はせは、『万葉集』の巻五と巻十六に多用されてゐる方法である。概ね、この方法は、話の概要を漢文で伝へ、微細な心の襞(ひだ)を含む歌は、万葉假名の一字一音表記を用ゐる方法と云ふ事ができる。

 理を伝へる ー 漢文
 情を伝へる ー 万葉假名の和文

と書き分けてゐるのである。漢文に精通すれば、話の筋や事の顛末は伝へる事ができる。しかし、それだけでは、情感が伝はらない。だから歌は假名を用ゐて書き留めたのであった。漢文だけでは情感が伝はらない。かといって全て万葉假名で書くと、読解に時間がかかってしようがない。

 多くの国文学者が既に異口同音に述べてゐるやうに、理を伝へる漢文は、男性の官人(役人)の文体となり、公の文章は、明治初期まで、漢文で書かれる事になる。漢文は政治即ち「ご政道」を論ずる文体となり、対する假名を中心に書かれた和文は、私的な気分を表す文体となってゆく。だから大日本帝国憲法や教育勅語は漢文訓読体であり、恋を語る歌や恋文は、和文なのだ。漢文の担ひ手が男性であるのに対して、和文の担ひ手は女性であった。勿論、男性も、私的な文章には假名文を用ゐてゐた事は云ふまでもない。

※参考文献
  • 「上野誠著 万葉集から古代を読みとく」
  • 上野誠著 万葉集から古代を読みとく

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