明治啓蒙の言説に蘇る荻生徂徠 ~ 伊藤仁斎と荻生徂徠 その一 ~

荻生徂徠は、明治の啓蒙の言説のうちに蘇る。徂徠は、伊藤仁斎の古義学を批判し、古文辞学を提唱した。その伊藤仁斎は、はじめ朱子学を信奉し、『敬斎』と号してゐた。しかしその後、朱子学の理と敬の思想を批判し、仁愛の倫理を説くといふ思想転換をしたのである。彼は、朱子学、陽明学の考へ方は、「経書の解釈方法を歪めてゐる」として古義学を提唱した。つまり、『敬斎から仁斎への変化』である。

 陳淳の『性理字義』を換骨奪胎してしまった伊藤仁斎の著書『語孟字義』がある。
※陳淳は、朱熹の弟子で、福建南部漳州の出身である。彼は朱熹が漳州に知事として在任してゐた時に入門し、数箇月後に朱熹が帰郷してからは書簡の往復によって教示を受けた。
この二つの「字義」解明といふ言語的作業によって、前者では<朱子学>が生産され、後者では<朱子学>の解体的作業を通じて<古学>といふ新たな思想が開かれるといふ思想営為の差異が生じるのである。

 仁斎がとる「字義」学の戦略とは、「語孟の二書を熟読精思し、聖人の意志語脈を能く心目の間に瞭然たらしむる」といふ言葉でいはれる。仁斎が「聖人」といふ時、それは孔子を指す。『論語』『孟子』の二書を熟読精思して、孔子の考へとその思想の文脈とを明瞭ならしめる事だといふのである。
「語孟二書を熟読精思して、聖人の意思語脈をして能く心目の間に瞭然たらしめよ」といふ仁斎の命題を、子安宣邦氏はかう云ふ。
『朱子テクストの<内的>読解を通しての朱子学的儒学説の反復的な再生産の構造の<外部>に己の視点を設定する事を意味する。「語孟二書」とはそのやうな反復的な再生産の構造の<外部>にとられた視点である。』

<内的>、<外部>といふ言葉の使用が、仁斎の古義学を実に興味深く表してゐる。

そして子安宣邦氏は、古義学をかうまとめる。


『語孟字義』とは、「語孟二書」によって朱子学として反復される儒学的言説とその概念構成のあり方を脱構築しようとする作業、すなはち、「語孟字義」といふ言語的作業の集大成である。だが、「語孟字義」といふ「字義」の解明作業は、「語孟」による、或は「孔孟の意思語脈」による「字義」の解明である。しかもその「字義」の解明は、すでに見たやうに読み直しとしてなされる。だから「語孟」による「字義」の解明とは、「語孟」を視点とする「字義」の読み直しである。それが「古義」学である。』

 いつしか「天命」といふ言葉は、人間の内面における自覚に呼応する言葉となってゐる。だが、性理学(朱子学)的言語が、儒家知識人の専用の言語として、「天命」とはしかく単純に自立する人間の内省に呼応する言葉ではなかった。孔子の上に人生の階梯が存在すると見ることと、すでに折り合ひのつけ難い聖人観が彼ら儒家知識人にはあったのである。聖人とは、彼らにあって、この世に生まれるとともに知至り、勉めることなく安らかに行ひうる存在ではなかったか。『論語』の中で学問に勉め徳を進める階梯を、孔子が自らの人生の回顧のごとく語ってゐる事を、あの聖人観に立つ儒家知識人は、どのやうに解するといふのだらうか。
程氏は、「学者の為に法を立つ。これをして科(あな)を盈(みた)してのち進み、章を成して後達せしむるのみ」といふ。また胡安国は、「聖人の数、亦多術、然れどもその要は人をしてその本心を失はざらしむるのみ。この心を得んと欲するものは、ただ聖人の示すところの学を志し、その序に循ひて進むのみ。一疵の存せざるに至り、万理明尽ののち、即ちその日用の間、本心瑩然として、意の欲する所に随ひて、至理に非ざることなし」と説く。
 程氏らは、『論語』の孔子の言に、夫子自らが己れの学問と人生の過程を回顧した言葉、すなはち「自叙伝」を読まうとはしない。むしろ学に志し道に進むものへの孔子による法の提示をそこに読むのである。

 かういった性理学的思惟に解体的に関はる仁斎の古義学は、「天」を、『論語』において仰ぎ見る、天を畏れ、自らをつつしむ孔子が見出され、人間孔子とともにあらためて己れもまた仰ぎ見る「天」として見出していくのである。

 性理学(朱子学)では、「命」字によって常に同じく天との関係性を演繹する。しかしその思惟と言語に、仁斎は「命」字の語法上の差異をつきつけるのである。「命字に虚字あり実字あり」と。
この「命」字の語法については、後日別記事として記述する。

※参考文献
  • 「子安宣邦著 江戸思想史講義」
  • 「小島毅著 朱子学と陽明学」
  • 子安宣邦著 江戸思想史講義
  • 小島毅著 朱子学と陽明学

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