魂とは。本つ世の真の幸を受く ~ 本居宣長と平田篤胤 その二 ~

 本居宣長の学徒たる平田篤胤は、死後豫美に行く事に異を唱へた。
『幽冥を以て、天堂と対立する地獄の意と解する事は、宣長の学徒たる平田篤胤の、為さなかった所であるとともに、それを宣長の如く豫美と同一視する事も、為し得なかった。後者の理由は二つある。』

魂とは。復古神道に於ける幽冥感 ~ 本居宣長と平田篤胤 その一 ~

 上の後者二つの理由とは、一つは、篤胤は天地創造説を主としてゐた点にある。即ち豫美は月で、天即ち日と対して、その始め、地から分かれて開闢後、地と断ち、地に比して混濁する要素から成る底津國である。死後魂の行くべき國とは全く別と考へるべきといふのである。二つには、死後霊魂が豫美の國といふ穢い國に行く事は、篤胤が神道に求めた信仰的要求上の問題で、篤胤はこの説は外國から混入してきた伝説で根拠がないとし、古事記に於ける伊邪那美命が神避して豫美に行かれた伝へは、死して魂として行かれたのではなく、まだ月の國が地と分かれない以前に、現身で行かれたのだと云ふ。よってこの点に関しては記及び紀の伝へは正しくなく、鎮火祭の祝詞に従ふべきである、と。而して、こゝに気が付かなかった宣長の豫美説は、謬見であるとした。斯て幽冥とは、死後に於ける霊魂の世界となったのである。

 さて、死、霊魂といふ事がこれにより、宣長に比して幾分明瞭になった。蓋し、生とは人が神の産霊により、諸神のそれ/゛\司どる風火水土と心魂とを承けて此世に出る事で、生命の重なものは、就中風、即ち伊邪那岐命の気吹に基づく呼吸で、生(イキ)はやがて呼吸(イキ)、而して呼吸の絶えるのが死となる。霊魂とは、いはゞ一種の霊気で、夢に現れ、或いは動植物に憑き、或いは言葉に幸へて言霊となる等、不可思議の活らきをも為し、死後形体が土に帰るとも、消えることが無く幽冥に赴き、大國主神に仕へ、その命令を承けて、子孫を始め、縁ある人々を守る。このやうに死後の世即ち来世といふ観念が、明瞭に形作られたと共に、日本書紀纂疏の解釈に見える応報感が力説されてきた。即ち、現世に於いては、善悪禍福の応報が、必ずしも正しく行はれないが、寧ろ現世は我々の為に、神による試みの地であり、終局の賞罰は、幽冥に存す。従って現世は寧ろ仮の世、重んずべきは幽冥の世。換言すれば、現世の禍福は仮の禍福で、幽冥界に於ける禍福こそ真のものなのである。村岡典嗣氏はかう云ふ。『吾人は、現世に於ける一時の禍福に誤られることなく、また、徒らに他人の毀誉褒貶に動かされることなく、たゞ神を恐れ良心に顧みて、行を謹み、現世にあっては神道に仕へ、徳行を磨き、以て幽界の本つ世の真の幸を受くべきである。』と。

 かくして、宣長にては凶事の源と解された豫美を司どる神とされた大國主神は、こゝに性質を一変して、(現世に比して)本つ世を司どる神となった。その本廷は、出雲大社にある。

※参考文献
  • 「村岡典嗣著 増訂日本思想史研究」
  • 村岡典嗣著 増訂日本思想史研究

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