漢民族とは何か? ~支那人の起源~ 皇紀2679年

 支那四千年と云はれる。「支那」とは、このサイトに以下の如く説明されてゐる。
『「支那」は支那史上最初の統一帝國 「秦」(チン Ch’in 前221~207)が語源であり、この「チン」(秦)が印度(サンスクリット語)へと伝はり、「チーナ」(Cina)・「ティン」(Thin)となり、更にヨーロッパへ伝はり、「シーヌ」(Chine 仏語)・「チャイナ」(China 英語)へと変化していった。そして、日本で慣用されてゐた「支那」も又、梵語(サンスクリット語)の「チーナ」が印度の仏典(仏教経典)と共に、支那へと逆輸入され、仏典の漢譯作業の際に、支那人自身が「チーナ」の語に「支那」・「脂那」の漢字を当てたのが起源である。つまり、英語の「チャイナ」と日本で慣用されてゐた「支那」は起源を同じくする同義語(姉妹語)と言ふわけである。』

 歴代王朝でその実在が確認されてゐるのは、紀元前1766年に成立したといふ殷であるが、史書では、その前に夏といふ王朝があり、これが紀元前2224年の創建とも云はれてゐるから、中原と云はれる黄河中流域にそれなりの中心的國家があったのが四千年前からといふのは、それほどのハッタリでは無い。しかし、強力な集権國家は、秦・漢帝國の成立による。紀元前256年に秦の始皇帝が戦國時代を終はらせて支那を統一したのが始めである。

 八幡和郎氏によれば、
『アジアの言語は、文法を中心に見れば、トルコ、モンゴル、満州、そして広い意味では朝鮮、日本などの言語を含むアルタイ語族と、支那、チベット、ミャンマー、場合によってはタイを含むシナ・チベット語族、それにマレーやポリネシアなどオーストロネシア語族に分けられる。古い日本語は文法はアルタイ語系に近いが、単語はオーストロネシアと共通してゐる。
支那語は、シナ・チベット語族で、タイ語と同じグループとも見られる。しかも支那神話の最も古い部分は、タイなどと共通するところが多い南方的なものである。』
といふ。
ところが、日本語の起源をアルタイ語とするのは誤りではないか?といふのがあり、それは、文法の一致と、基礎単語の乖離から、日本語を、原アルタイ語からの継承と理解することは妥当だが、日本語の母音調和が、原始的過ぎるがゆゑ、さやうな語彙(=単語)の乖離から、縄文人が話してゐた原日本語は、既に原アルタイ語を祖語とするものではなかった。といふ論説である。
※参考) 日本語の起源をアルタイ語とするのは誤りではないか?

 また、このごろは、長江文明の方が黄河文明より先行してゐた事もはっきりしてゐる。近年遺跡発掘の調査により、長江流域の農耕誕生は黄河文化よりも早く、大河流域を離れたところでも独自の農耕社会が発展してゐることが分かってきたのである。
つまり、南方的な文明が育ってゐたところに、北アジアで寒冷地に強い特質を獲得し、武力も強い新モンゴリアンと呼ばれる人達が南下して混血し、先住民の言語を使ふやうになって黄河文明を栄へさせたのが漢民族の成立といふ事だらうか。その後、中原には様々な民族がやってきたが、漢語を使ふ社会は維持され続けた。

 しかし言語が、南方的であるにも関はらず、支那人は自分達のルーツを北西の黄土高原に求めたがる。農業を始めた神農を祖とする部族の最後の皇帝が炎帝で、それに五穀を栽培し遊牧をしてゐた黄帝の部族連合がとって代はり、南方系の民族を破って中原を支配するやうになったのが民族と支那國家の始まりというわけである。

 漢王朝の王家は淮河流域から出てゐるので、やゝ南方的なのだが、都は前漢が長安、後漢は洛陽といづれも黄河流域に置いた。この時期に、『漢人』と呼ばれ始め、これが漢民族の由来である。

※参考文献
  • 「八幡和郎著 領土問題は「世界史」で解ける」
  • 「黄文雄著 学校では絶対に教へない植民地の真実 朝鮮・台湾・満州」
  • 八幡和郎著 領土問題は「世界史」で解ける 黄文雄著 学校では絶対に教へない植民地の真実 朝鮮・台湾・満州

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